「定九郎は死んだ役だ。その死んだ定九郎が動いてくれない」と悩む仲蔵だったが、雨やどりの蕎麦屋に入ってきたズブ濡れの侍を見て「そうか、定九郎は悲しいんだ」と、まったく新しい演出を思いつく。
周到に準備して初日を迎え、支度を整えて揚幕できっかけを待つ仲蔵。と、すぐに場面転換して仲蔵は帰宅、女房に「失敗した」と経緯を語る。五段目をリアルタイムで描かない斬新な演出で、これが実に効果的。冒頭の「五段目の描写」は、このための仕込みだったのである。
上方へ行くと言う仲蔵に、晴れの門出だからと女房が赤飯と尾頭付きを出す。それを見た仲蔵は、いかに女房が仲蔵の成功だけを信じていたかを知り、「すまねぇ」と涙する。萬橘ならではの感動的な描写だ。
家を出た仲蔵があの蕎麦屋に立ち寄ると、五段目を観て帰ってきた客がいた。「間抜けな役なんかじゃないんだ、定九郎は悲しいんだ……それを仲蔵が教えてくれた」仲蔵の意図は理解されていたのである。
師匠の中村伝九郎に呼ばれて行くと、定九郎の評判で持ちきりだ、大当たりだと聞かされる。「明日からお前の定九郎を観るために、二倍三倍のお客様が来てくださる。もっと胸を張れ」「いえ、私は芝居(四倍)のためにやりました」でサゲ。これも萬橘オリジナルだ。
五代目圓楽の型に独自の工夫を大きく加えた『中村仲蔵』。グッとくる逸品だ。萬橘の底力を知った。
●ひろせ・かずお/1960年生まれ。東京大学工学部卒。音楽誌『BURRN!』編集長。1970年代からの落語ファンで、ほぼ毎日ナマの高座に接している。『現代落語の基礎知識』『噺家のはなし』『噺は生きている』など著書多数。
※週刊ポスト2019年5月31日号