第二次大戦時、知られざる世界有数の諜報機関の地位を築いていた陸軍中野学校の出身者には、瞠目(どうもく)すべき人物がいた。長年にわたって、中野学校OBへの取材を続けているノンフィクション作家の斎藤充功氏が挙げたのは、工作隊「神機関」の機関長だった新穂智少佐である。
「オランダ軍の守備隊があったインドネシアの大油田を制圧したパレンバン空挺作戦(1942年)。“空の神兵”として知られるこの奇襲作戦が成功したのは、身分を偽装してスマトラに潜入し、事前に石油や地形調査を行なっていた新穂少佐を始めとする中野学校の隊員たちがいたからです」(斎藤氏)
新穂少佐の最後の仕事となったのが、数百kmにわたるニューギニアのジャングルを徒歩と丸木舟で横断し、来るべきニューギニア戦線の核となる地形図や基礎情報を収集する作戦だった。
「1943年11月から翌年6月まで、約7か月かけて戦闘地域のジャングルを踏破した新穂が残した記録『西部ニューギニア横断記』には、地形から原住民の風俗、習慣、籐で造られた橋の構造、動植物の生態まで、ありとあらゆる情報が詳細に記載、スケッチされています。この記録には、多大な学術的価値も認められており、現在は国立民族学博物館に収蔵されています」(斎藤氏)
ニューギニア戦線に投入された約20万人の日本兵のうち、生還者はわずか2万人あまり。死者の多くが栄養失調やマラリアにかかり餓死する悲惨な戦場だった。そうした中、新穂少佐が率いた部隊はわずか1名の戦死者のみで工作活動を終えている。戦後、オランダ軍の捕虜となった新穂少佐は、部下が行なった捕虜殺害の責を一身に背負い、粛然と刑場の露と消えた。
※週刊ポスト2019年8月16・23日号