旅にも、社交にも飽いたカップルを包む不穏な空気(「異国の旅人」)。アルコール依存症の医師が暮らす田舎町に竜巻が襲った日(「風の中の家族」)。ある種のおかしみが漂う借金生活(「フィネガンの借金」)など、フィッツジェラルド自身を思わせるが、重苦しいわけではない。村上は、薄暗い時代に生み出された作品群であっても〈しかしそこには、深い絶望をくぐり抜けようとする、そして微かな光明をなんとかつかみ取ろうとする前向きな意志が垣間見える〉と述べている。
エッセイ「私の失われた都市」の一節。〈ある日の午後タクシーに乗って、藤色とバラ色に染まった空の下、高層ビルの間を抜けていたときのことだ。私はわあわあ泣き出した。なぜなら私はほしいものを残らず手に入れていたし、これほど幸福になることはもう二度とないだろうとわかったからだ〉。絶頂期に見た夕刻の空。若き作家は自分の未来を悟りながらも、作家の歩みを止めなかった。
※週刊ポスト2019年9月13日号