それだけに、1183年7月の平家一門の都落ちに際し、安徳天皇が連れ去られただけでなく、三種の神器まで持ち去られたことがわかると、比叡山に逃れて同行を免れた後白河法皇を始め、公卿たちもみな頭を抱え込んだ。新たな天皇を立てようにも、皇位継承の儀式である践祚(せんそ)の式を行なうには三種の神器のどれ一つとして欠けてはならなかったからだ。それが一つどころか三つとも持ち去られてしまったため、法皇は平家追討より三種の神器の確保を優先させようとしたほどだった。
けれども、天皇不在の状態を長期化させるのはさすがにまずい。誰を擁立するかは占いによって決められたが、問題は“三種の神器なしの践祚”をいかに正当化させるかである。
議論の末に出された結論は、「三種の神器は神そのものでもあるから、然るべき主のもとに必ず帰ってくる。ゆえに現物がなくても践祚は成立する」という論理だった。
かくして後鳥羽天皇が即位したわけだが、1185年3月の壇ノ浦の戦いにおいて平家が滅亡した際、大問題が生じた。八坂瓊曲玉と八咫鏡は無事回収されたが、安徳天皇ばかりか草薙剣までもが海の藻屑と消えてしまったのである。朝廷では鎌倉の源頼朝を通じて源範頼と義経に壇ノ浦での捜索を継続させるかたわら、全国の主だった寺社に加持祈祷を要請するなど、藁にも縋る思いでいた。
草薙剣の抜けた穴を何で埋めるか。とりあえず宮中の清涼殿に安置されていた「昼御座(ひのおまし)の剣」を代用としたが、1210年に後鳥羽が先に伊勢神宮から献上された新たな宝剣を採用する案を思いつくと、朝廷ではそれを草薙剣の後継と認める案が満場一致で可決された。その後、三種の神器は南北朝時代の一時期を除いて、宮中に留め置かれた。
1443年には南朝の残党に与する一団が内裏を襲い、八坂瓊曲玉を盗んで吉野へ持ち去る事件(禁闕の変=きんけつのへん)が起きるが、入念な作戦計画と交渉が功を奏して、1458年には無事内裏へと戻された。
戦国時代以降、三種の神器に関する記録はめっきりと減るが、今回の即位礼にも登場することからわかるように、宮中では時代を超えて受け継がれている。
【プロフィール】しまざき・すすむ/1963年、東京生まれ。歴史作家。立教大学文学部史学科卒。旅行代理店勤務、歴史雑誌の編集を経て現在は作家として活動している。著書に『ざんねんな日本史』(小学館新書)、『いっきにわかる! 世界史のミカタ』(辰巳出版)、『いっきに読める史記』(PHPエディターズ・グループ)など著書多数。最新刊に『ここが一番おもしろい! 三国志 謎の収集』(青春出版社)がある。