谷津嘉章はモスクワ五輪レスリング100キロ級代表だった(写真/共同通信社)
「大きなバックアップを受けてモスクワを目指したのに、それが目の前からなくなってしまった。お世話になった大学に対して、負い目みたいなものを感じてしまって。そこから次のロサンゼルスを目指す気持ちにはなれなかったし、そのまま大学に残って当初予定していた指導者になるようなことも考えられなかった」
谷津はモスクワの2年前から、新日本プロレスのアントニオ猪木からプロレスラーへの転身を打診されていた。当初は興味もなかった谷津だが、ボイコットにより1980年10月に翻意する。猪木や坂口征二の間に挟まれて行った入団会見で身に纏ったのは、モスクワで着るはずだった日本選手団の赤いブレザーだった。
「ボイコットも、プロレスラーへの転身も、運命としか言いようがない。東京五輪の延期によって、五輪を諦める選手もいるだろうし、逆にチャンスが訪れる選手もいるはず。それもまた運命と割り切るしかないよね」
※週刊ポスト2020年5月8・15日号