柳川悠二一覧

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PL学園野球部は廃部、創価大学駅伝部は躍進…新宗教「学生スポーツ」の明暗
PL学園野球部は廃部、創価大学駅伝部は躍進…新宗教「学生スポーツ」の明暗
 信者数が減少傾向にある新宗教にとって、機関紙などと並んで“宣伝活動”を担うのが系列学校の「学生スポーツ」だ。そこにもまた各校の栄枯盛衰がある──。『永遠のPL学園』の著者でノンフィクションライターの柳川悠二氏がレポートする。(文中敬称略)【写真】PL学園野球部は2016年に事実上の廃部となった * * * 正月の風物詩である箱根駅伝で、創価大学の駅伝部が往路優勝を遂げたのは2021年1月2日のこと。池田大作名誉会長が93回目の誕生日を迎えたこの日、コロナ禍で在宅率が高かったこともあり、視聴率は30%を超えた。学会員に希望を与えて活気づけ、機関紙・聖教新聞も快挙を讃えた。 新宗教団体は、傘下の高校や大学におけるスポーツ活動がいわゆる広告塔の役割を担い、新規信者を獲得してきた歴史がある。その最大の成功例は大阪のPL教団だ。 2代教祖の御木徳近(みき・とくちか)は、社会人野球で活躍していた立正佼成会に対抗すべく野球を奨励し、1955年に創立したPL学園の硬式野球部強化を厳命。甲子園球場のアルプス席で「PL」の人文字を描いて宣伝した効果は絶大で、KK(桑田真澄、清原和博)コンビを擁した1980年代の黄金期、信者数は公称で235万人に達した。 春夏通算7度の全国制覇を誇り、高校野球の歴史においても絶大な人気を誇ったPLだが、2000年代に入って暴力事件が相次ぎ、信者の激減によってかつてのように寄付金などの浄財を野球部に投下できなくなり、2016年に事実上の廃部となった。学園の生徒数も減少の一途を辿り、今年の入試倍率(理文専修コース)は「0.02倍」に。学校自体が存続の危機に瀕している。新規より“繋ぎ止め” ほかに立正佼成会の佼成学園(東京)や、今春のセンバツに出場した金光教の金光大阪、創価学会の創価(東京)、関西創価(大阪)も強豪だが、PLなき今、新宗教系学校随一の野球名門校といえば奈良の天理だろう。 天理では野球部に加え、柔道部、ラグビー部が天理スポーツ三兄弟と呼ばれ、いずれも全国レベルの強豪である。 団体名が市町村名となっている天理市は天理教からの寄付金が市の財政を助けてきた歴史があり、一時は年40億円を超えた。ところが、平成に入ってからは信者の数に比例して減少傾向にあり、2020年度には3億円に。今年度はいよいよゼロになるのではないかと噂された。天理市の並河健市長はかつて筆者の取材に、こう語っている。「ゼロにはなりません。寄付金だけが市と天理教の協力体制ではない。スポーツに力を入れる天理高、天理大の存在によって市が発展してきていますし、市民の健康づくりや教育面でも、今後より協力関係を厚くしたい」 現代でスポーツ活動に新たな「信者獲得」の役割を担わせるのは、難しいのかもしれない。むしろ現役信者を激励し、彼らの健康促進を支える目的が窺える。つまり「信者の繋ぎ止め」にこそ、新宗教のスポーツ戦略は活用されているのだ。 そうしたなか、一般市民に最も近しいスポーツといえる「ランニング=駅伝」で創価大が快挙を達成したことは、「新宗教とスポーツ」の置かれた現況を象徴する出来事なのかもしれない。【プロフィール】柳川悠二(やながわ・ゆうじ)/ノンフィクションライター。1976年、宮崎県生まれ。大学在学中からスポーツ取材を開始。近著に『投げない怪物 佐々木朗希と高校野球の新時代』※週刊ポスト2022年5月20日号
2022.05.19 15:15
マネーポストWEB
(左端から)主将の武田、エースの大野、キャッチャーの西田らは親子2代で大島高校
奄美からセンバツ甲子園に出場! 大島高校「離島だから強くなれた」
 鹿児島本土から約380キロの「奄美大島」から、3月18日に開幕したセンバツ甲子園の切符を勝ち取ったのが鹿児島県立大島高校だ。練習時間や移動距離などで離島は不利だと思われがちだが、本来ならハンデとなる環境が、むしろアドバンテージに変わることもあるという。ノンフィクションライターの柳川悠二氏がリポートする。【前後編の後編。前編から読む】「フェリーのチャーター」を断念 大島高校の正門を抜けると、すぐに「甲子園事務局」と看板に書かれた教室があった。ちょうど、老齢の男性が地元TV局のインタビューを受けていた。121年の歴史がある同校の同窓会組織である「安陵会」の丸田卯禮男会長だった。「寄付金や甲子園応援の問い合わせが多く、この教室に電話線を引いて事務局としているんです」 教室には熊本西や松山東といった近年、甲子園に出場した学校の応援グッズが並べられていた。複数のスポーツ用品メーカーからサンプルが届いており、予算と相談しながら今回のグッズを選定している途中だという。 離島の応援団は、移動も大がかりだ。フェリー移動となれば、試合前夜に12時間をかけて鹿児島まで行き、そこから新幹線で大阪へ。万が一、雨で順延となっても、奄美に戻るわけにはいかず大混乱となる。ゆえに、82歳になる丸田会長は様々な案を巡らせていた。「大型のフェリーをチャーターして、奄美から大阪の港に寄港する。順延や、勝ち上がって滞在が増えるようなら、停泊したフェリー内で寝泊まりすればいい。他のお客様もいないので、コロナ感染のリスクも避けられる。しかし、組み合わせ抽選から試合の日まで2週間ちょっとしかない。フェリーをチャーターするには一か月前には予約しないと難しいということで、断念しました」 離島の野球部が負うハンデは多い。 塗木哲哉監督は毎年夏、新チームが発足直後の8月に鹿児島市内で10日間ほどの合宿を行うが、それには理由がある。鹿児島県大会に出場するとなれば、最大で2週間ほど、選手はホテル暮らしを強いられる。自宅から通っている球児が多い同校では、まず部員が共同生活に慣れることが甲子園への第一歩なのだ。「島の子供ですから、初めて訪れた場所ではキョロキョロしながらあっちへ行き、こっちへ行きと仔犬のマーキング動作のような行動を取ってしまう(笑)」 保護者の金銭的負担も大きい。小林誠矢部長が話す。「決勝まで進めば負担額は15万円ほどになる。すると家計を心配する生徒が、昼食時に鹿児島大学の学食に行きたいと言い出すんです。学食は一般の食堂より安いですから。親を想う子供たちの気持ちが分かるから、私たちもつらい。だから監督や私たちは『いききれ!』と伝えている。つまり、鹿児島大会を勝ち抜いて九州大会や甲子園に出場できれば、寄付金が集まって保護者の負担は少なくてすむ。だから最後まで勝ち上がれ、と」練習試合が組めない! 大島高校では、平日の練習はわずか1時間半から2時間程度。 グラウンドはそれなりに広さがあるものの、野球部の他にサッカー部、ラグビー部、女子ソフトボール部が使用し、野球部の練習は内野ほどのスペースしかない。外野ノックやフリー打撃は他の部活動が終わってからだ。 やはり決定的に不足するのは実戦練習ですか──と問うと、塗木監督は南九州でよく耳にする「ですです」の相づちのあとこう続けた。「ただ、離島のハンデという言葉は好きじゃない。練習試合ができなくても、工夫と発想があれば、ハンデはむしろアドバンテージとなる。離島の学校でも勝てるんです」 相手校の部員数の関係で島内の学校と練習試合を組むことはできず、実戦練習は紅白戦で培っていく。主力でAチームを構成し、控え中心のBチームには工夫を凝らす。「総合力は劣っても、足の速い子、バッティングの良い子、守備の上手い子はいる。3人が束になれば一人前になる。だからBチームは足専門、打撃専門、守り専門の選手を起用したりして、実力を拮抗させます」 紅白戦では攻守交代の時間を「20秒」に定めてナインを急かしていた。審判団が迅速に試合進行させる甲子園の戦いを見据えてのことだろう。 ただ、本番を想定した練習を繰り返してもなお、アクシデントは起きる。 組み合わせ抽選が行われた3月4日の夜、塗木監督や部長らは大慌てで各所に連絡を入れた。 同校は3月9日から和歌山で短期の合宿を行ったあと、甲子園入りするスケジュールを組んでいた。和歌山では智弁和歌山や箕島との練習試合を予定していたところ、和歌山県の教育委員会が県外の学校との試合を禁止に。旅館等の手配もやり直しとなったのだ。 3月12日に急遽組まれた練習試合の相手は京都の龍谷大平安だった。8年前に選抜出場した際に初戦で対戦した相手である。その時は2対16で大敗し、平安はその大会を制した。それから8年後、大野稼頭央が先発した1戦目は0対2で敗れたものの、小さな大黒柱は105球(自責点0)で完投した。肌寒い中でもMAXは144キロをマークした。 これ以上ない仕上がりだった。選抜の5日目に対戦する相手は、塗木が神宮大会で視察した関東大会の王者である明秀日立だ。塗木監督は言う。「強豪には違いないですが、大野が普通に投げれば勝負できる。大野は物怖じするタイプではありませんが、あり得ないことが起こるのが甲子園なんじゃないんですか。稼頭央が夢中になって白球を放れるか。私はそれを演出するだけです」 大野は対戦したい打者として花巻東の1年生スラッガー・佐々木麟太郎の名を挙げ、優勝候補筆頭の大阪桐蔭とも対戦したいと話していた。 勝ち上がれば2回戦で花巻東、準々決勝で大阪桐蔭と対戦の可能性がある。離島で育った大高ナインによる「大島旋風」を期待するのは、島民ばかりではないだろう。(了。前編から読む)【プロフィール】柳川悠二(やながわ・ゆうじ)/ノンフィクションライター。1976年、宮崎県生まれ。法政大学在学中からスポーツ取材を開始し、主にスポーツ総合誌、週刊誌に寄稿。著書に『永遠のPL学園』(小学館文庫)。2016年、同作で第23回小学館ノンフィクション大賞を受賞。撮影/比田勝 大直※週刊ポスト2022年4月1日号
2022.03.21 07:02
週刊ポスト
奄美・大島高校のエース左腕・大野稼頭央
奄美・大島高校の注目左腕 「中学時代は軟式で連合チーム」から甲子園へ
 鹿児島本土から約380キロの「奄美大島」から、3月18日に開幕したセンバツ甲子園の切符を勝ち取ったのが鹿児島県立大島高校だ。練習時間や移動距離などで離島は不利だと思われがちだが、本来ならハンデとなる環境が、むしろアドバンテージに変わることもあるという。ノンフィクションライターの柳川悠二氏がリポートする。【前後編の前編】大阪桐蔭のエースより凄い!? およそ6万人が暮らす鹿児島県の奄美大島にある県立大島高校の塗木哲哉監督(54)は、昨年11月、東京を訪れていた。目的は全国の地区大会を勝ち抜いた10校が集結し、秋の日本一を決する明治神宮大会の視察だった。 島内では「大高(だいこう)」の愛称で親しまれている大島高校は、昨秋の鹿児島大会を離島勢として初めて制し、九州大会でも準優勝。21世紀枠で初出場した2014年以来となる2度目の甲子園出場を“当確”させていた。1回戦全試合の観戦を終えた塗木監督は、同行していた小林誠矢部長にこう口を滑らせた。「ひいき目なしにうちの大野が一番かもしれんな」 大阪桐蔭には前田悠伍という同校史上最高の左腕と目される1年生投手がいる。広陵(広島)にも明秀日立(茨城)にも好投手や豪腕がいた。それでも大高のエース左腕である大野稼頭央に抱く自信と期待は膨んだ。PL学園出身の松井稼頭央(現・埼玉西武ヘッドコーチ)のファンだという両親に名付けられた大野は、175センチの細身の体型ながら、全身を使ったしなやかな美しいフォームで白球を投じてゆく。MAX146キロ。大きく曲がる縦のスライダーが宝刀だ。「とにかく野球センスがある。ピッチャーしかできないような選手って多いじゃないですか? 稼頭央の場合は、打つことも守ることも素晴らしい。左投げですが、内野だってできるかもしれない。『お前の商品価値を高めるのは、これからのお前次第だ』と伝えています」(塗木監督) 高校からプロ入りを目指す大野の大願が成就すれば塗木監督にとって教え子のプロ第一号となる。 大島高校を訪れた2月下旬の2日間、奄美は雨に祟られた。時折、スコールのような強い雨風が襲い、慌ててひさしのある場所に急ぐナインの姿があった。年間の雨量は屋久島が上回るものの、曇天が多い奄美大島は国内でも日照時間が突出して短いことで知られる。 184センチ、105キロという大柄な体格で、コテコテの鹿児島弁を操る塗木監督は、数学の教師だ。54歳となる現在まで甲子園とは無縁の監督人生を送ってきた。鹿児島南、頴娃高校、志布志高校の監督時代で最も甲子園に近づいたのは監督2年目の1995年夏(県準優勝)。県大会を制した経験もない。そんな彼が奄美にやってきたのが、2014年春だ。副部長から2016年7月に監督となり、5年半後、聖地にたどり着いた。「一緒に島に残ろう」 鹿児島実業や樟南といった伝統校や、神村学園、鹿児島城西のような新勢力が猛威を振るう私立優位の鹿児島にあっても、塗木監督は30年近く甲子園出場の夢を公立校の球児たちと共有してきた。「鹿児島南の時代から、生徒たちを関西遠征に連れ出し、時には甲子園で試合を見せたりしていた。生徒には『甲子園で勝つぞ』と言い続けてきた。今回の選抜出場で、鹿児島南から続く教え子たちに、『甲子園に行く』という約束は果たせた」 塗木監督の座右の銘は、「■啄同時」(■は口偏に卒。そったくどうじ)──。鳥の雛が卵から孵ろうとする時、内側から殻を突いて音を立て、タイミングを見計らったように親鳥もまた外側から殻を突いて殻を破る手助けをする。教師(監督)と生徒(球児)とはそういう関係が理想だと考えている。「若い頃は、まだ雛が内側から殻を突いていないのに、外からガンガン割ろうとしてしまう親鳥だった。野球の指導も、時期とタイミングが大事と今は思います」 今秋のドラフト上位候補に名前が挙がる大野は、奄美空港に近い龍南中学時代は部員数が9人に満たない軟式野球部に所属し、大会には連合チームで出場していた。単独チームではない学校で野球に励んだ投手が甲子園のマウンドに上がるなど聞いたことがない。 中学まで無名に近かったが、それでも強豪校から誘いがあったという。「鹿児島実業OBの知り合いがいて、誘われていたんです。本当は僕も鹿実に行こうと思っていました」 大野はそう言ってはにかんだ。大高でバッテリーを組む西田心太朗は、中学時代に練習試合や公式戦で頻繁に戦った仲だった。父親が大島の野球部OBという共通点もあり、両家が揃った食事会で西田に「俺は大高に決めた。一緒に大高で甲子園を目指そう」と誘われ、奄美に残る選択を下す。 昨秋の鹿児島大会をひとりで投げきり、九州大会では準々決勝の興南戦を完封。しかし、「1週間に500球まで」という球数制限に引っかかり、準決勝、決勝のマウンドは初めて仲間に託した。左腕で146キロを投げるというのも出色だが、スライダーやカーブ、チェンジアップと、すべての球種が決め球となる。「打者が球種を分かっていても打たれないボールを追求したい。甲子園はどこよりも投げやすいマウンドだと聞きますけど、やっぱり初めて立つところなので、不安はある。でも、ドキドキ、ワクワク、楽しみです」 そんな大野を島に引き留めた西田は、選抜出場の功労者かもしれない。「小学校、中学校と見てきて、島外を含めてのトップクラスの投手で格が違った。体は小さかったけど、全身を使ってキレの良いボールを投げていた。稼頭央と一緒ならどこまで行けるのか。そうしたワクワク感があった」 西田のインタビューには主将で遊撃手の武田涼雅も同席していた。彼の父親もまた大高のOBだ。いや部員の両親のほとんどが大高出身だ。郷土と母校への愛着が連綿と続く。武田もエースに対する絶対の信頼を口にした。「九州大会の準々決勝・興南戦では、それまでのスタイルを一変させて、技巧派に切り換えた。球数制限を気にし、三振よりも打たせて球数を減らそうとした。そうしたスタイルチェンジがすぐにできるところも強み」(後編につづく)【プロフィール】柳川悠二(やながわ・ゆうじ)/ノンフィクションライター。1976年、宮崎県生まれ。法政大学在学中からスポーツ取材を開始し、主にスポーツ総合誌、週刊誌に寄稿。著書に『永遠のPL学園』(小学館文庫)。2016年、同作で第23回小学館ノンフィクション大賞を受賞。撮影/比田勝大直※週刊ポスト2022年4月1日号
2022.03.21 07:01
週刊ポスト
聖隷センバツ落選「密室の選考委員会」最大のキーマンが口を開いた
聖隷センバツ落選「密室の選考委員会」最大のキーマンが口を開いた
 騒動は広がるばかりの聖隷クリストファー(静岡)のセンバツ落選問題。週刊ポストとNEWSポストセブンで、同校監督の独占告白などをレポートしてきたノンフィクションライター・柳川悠二氏が、「密室の選考委員会」の内実を追い、選考委員たちを連続直撃した。会見で選考理由について「個々の能力」を挙げて波紋を広げ、その後は沈黙を貫いてきた “最大のキーマン”と言われる鬼嶋一司・選考委員長が、ついに口を開いた。 * * * 温暖な静岡県浜松市に粉雪が舞った2月5日、私立聖隷クリストファー高校のグラウンドでは、ナインが寒風を裂くように声を発し、ウォーミングアップを行っていた。 同校校長でもある上村敏正監督(64)を待つ間、お茶を運んでくれたのは女子マネジャーだった。選抜出場を信じて疑わなかったナインは落選のショックを振り払い、夏に気持ちが向かっているのか──そう訊ねると彼女は静かに首を横に振った。 1月28日に行われた選抜高校野球大会(3月18日開幕)の代表校を決する選考委員会において、昨秋の東海大会で準優勝だった聖隷は、まさかの落選。優勝した日大三島(静岡)に次ぐ2枠目に選ばれたのは、ベスト4の大垣日大(岐阜)だった。 聖隷の上村監督は浜松商と掛川西を春5度、夏3度の甲子園に導いた名伯楽だ。選考委員会の直後、上村監督は全メディアで初の単独インタビューに応じ、私はNEWSポストセブンで記事にした。一部を抜粋する。「100%出場できると思っていた選手にとって、その100%を失えばどれほどの傷を負うことになるのか、想像してみてください。選手はやりきれません」 その後、上村監督は校長という立場もあり、表立って発言することを避けるようになっていく。だが、今回の選考を巡る真相が明らかになることだけが願いのはずだ。 だからこそ、私は選考の内幕を調査してきた。「意見の相違はあった」 選考委員会から半月以上が経っても、賛否の議論に収束の気配はない。静岡県高野連が選考理由の丁寧な説明を求めたのに対し、日本高野連が2月10日に「詳細な内容は公開になじまない」と拒否したことも要因だろう。 選抜の選考委員会は、5つの「地区別小委員会」に分かれ、21世紀枠3校を除く29校を選出し、主催者の日本高野連と毎日新聞が承認する。毎日新聞は1月28日付の朝刊で全選考委員の氏名を掲載しているが、誰がどの地区の選考にあたるかは明らかにしていない。 私の調べによると、東海地区担当の選考委員は8人。選考委員長の鬼嶋一司氏(元慶応大監督)に加え、六大学野球の監督経験者が1人、社会人野球で監督を務めた2人の指導者。そして静岡県高野連の理事長である渡辺才也氏に、都道府県の高野連で役員を務めたOBが2人。さらに毎日新聞OBが1人の計8人である。 県大会を勝ち上がった学校が揃う秋の地区大会は、選抜の“予選”ではない。選考委員が地区大会を視察して試合内容を吟味し、成績の下位校が選ばれることもある。だが、聖隷と大垣日大の勝ち上がり方や投打の成績を比較しても、準優勝した聖隷が落選する数値的な根拠は見当たらない。 さらに選考委員長の鬼嶋氏は会見で、「個々の能力の差」「投手力の差」「甲子園で勝てるか」といった理由を列挙した。 聖隷はエースと正捕手をケガで欠くなか、本来は外野手の左腕・塚原流星の好投などで準優勝を果たした。鬼嶋委員長が挙げた選考理由は、チームの輪で勝ち上がった聖隷の選手を否定するような発言ではないか。 選考委員8人のなかで、最初に口を開いたのが静岡県高野連の渡辺理事長だった。渡辺氏は最初の赴任地が浜松商で、当時、野球部を率いていたのが上村監督だった。「私は聖隷さんが選ばれると信じていました」と渡辺氏は言った。ならば委員会はどのように進行したのかと訊ねると、なんとも歯切れが悪くなる。「選考委員としての背任行為になるかもしれませんので、お話しできないんです。上村監督が腑に落ちないところがあるのは十分わかります。準優勝した粘りとか、外野手が緊急登板した状況でも結果を残したことが評価されなかった」 複数の関係者から得た情報によると、渡辺氏ら3人が聖隷を推し、あと3人が大垣日大を推薦。真っ二つに割れ、最後は委員長の裁量で結論を出したということだが、渡辺氏はこう答えた。「それはなんとも言えません。強いて言うなら、賛否が分かれた」 意見の内訳に関しても最後まで口を閉ざした。 私は名古屋や浜松、富士宮、京都に足を運び、選考委員を含めた約30人の野球関係者から情報を集めた。上村監督を知る指導者は「先生には恩義がある」と口を揃え、選抜優勝経験のある指導者は怒りの声をあげた。「10人選考委員がいれば10人が聖隷を選ぶ戦績。どうしてこんな選考となったのか。私は選抜が汚されたと思っています」 重要な証言者となる選考委員には手紙などで依頼した。すると、そのうちの一人が取材に応じ、匿名を条件に選考過程についてこう答えた。「東海大会が終わった時点から、意見の相違はありました。選考委員会の当日も、意見が割れるだろうな、という思いで会議には臨みました」 どちらを推したかについては「お答えいたしかねますね……」という反応だったが、この選考委員A氏については、小委員会の終了時刻が迫り、決をとる際に棄権したという情報もあった。そうでなければ、鬼嶋委員長を除いた選考委員7人の意見が「3対3」に分かれることはない。「それについてもお答えしかねます。ただ、鬼嶋委員長が最後に意見をまとめたというのは皆さんがおっしゃる通りです。私が発言することによって、どなたかの名誉に関わることは避けたい。それぞれが意見を述べ、委員長が大垣日大に決定した。それが総意です」 A氏は慎重に言葉を選びながらそう話した。大垣日大は「中程度……」 鬼嶋委員長が選考委員会の前日、選考に関してA氏に電話を掛けていたという情報も耳にしていた。それを問うとA氏は「私の立場上、質問には答えかねます」とし、否定はしなかった。あとは鬼嶋委員長に聞くしかない。A4用紙1枚の質問状を送ると、その日の夕刻に鬼嶋委員長から慌てた様子で電話がかかってきた──。「毎日新聞からは止められたんだが、連絡をしないのは失礼だと思って。質問のなかで2点否定したい。前日に他の選考委員に連絡を入れて話すようなことは絶対にないし、決議を棄権した方がいるというのも事実ではありません。先に7人から、聖隷と大垣日大の投攻守の意見を聞いて、すべてが出そろってから、(小委員会の終了時刻が近づき)僕も方向性を決めなければいけないから(大垣日大に決まった)」 誰もが知りたいのは、委員長の鬼嶋氏が大垣日大を推した理由だ。個々の能力の差、投手力の差を挙げていたが──。「僕は大垣にこだわったわけではない。データも見ているんですが、試合数が少なくてデータにもならないんです。『春は投手力』というように、投手力のあるチームが……まあ、僕自身、大垣日大が強いとは、思っていません。中程度……高校生が傷つくのが嫌なので、申し訳ない、そこは察して、あとは毎日に聞いてください」 鬼嶋委員長はデータ不足というが、東海大会の1、2回戦が行われた10月31日に、他の選考委員に断った上で、東京で早慶戦の解説をしたのも委員長である。 結局、戦績で下回る大垣日大を選んだ理由となると、鬼嶋委員長は言いよどみ、最後は一方的にまくしたてて電話を切られてしまった。 毎日新聞に連絡を入れると、前夜の電話などについて承知していないとしたうえで、こう答えた。「選考委員の方々には、担当地区の秋季大会の試合後に意見交換をしていただいているほか、その後も必要に応じた意見交換を経て選考委員会に臨んでいただいております」(社長室広報担当) 選考結果に誰よりショックを受けているのは無論、聖隷の選手である。主催者や選考委員の大人たちはなぜ、そこに正面から向き合うことをせず、丁寧な説明すら拒むのか。選手たちは今後、静岡大会に臨むうえでも好奇の目にさらされる。そうした選手の未来を誰より案じているのが上村監督だ。 今後、選考委員と主催者が丁寧に説明する機会を設けないのであれば、聖隷を救う策はもはやひとつしか残されていない。 33枠目の扉。それを開いてあげることだ。【プロフィール】柳川悠二(やながわ・ゆうじ)/1976年、宮崎県生まれ。法政大学在学中からスポーツ取材を開始し、主にスポーツ総合誌、週刊誌に寄稿。著書に『永遠のPL学園』(小学館文庫)。2016年、同作で第23回小学館ノンフィクション大賞を受賞。※週刊ポスト2022年3月4日号
2022.02.18 07:00
週刊ポスト
3冠王の期待もかかる村上宗隆(時事通信フォト)
ヤクルト・村上宗隆 「清宮の外れ1位」が覚醒するまで
 東京五輪では正三塁手として金メダル獲得に貢献し、シーズンではホームラン・打点の二冠王を争いリーグ優勝に突き進む。高卒4年目のスターはしかし、高校時代は同期に後れを取る存在だった。その覚醒前夜を、ノンフィクションライターの柳川悠二氏がレポートする。(前後編の前編、後編は〈HR量産のヤクルト・村上宗隆 宮本慎也氏「500本は確実に打つでしょう」〉) セ・リーグの首位を走る東京ヤクルトの立役者といえば、21歳の主砲・村上宗隆である。クライマックスを迎えている今シーズンは38本塁打(1位)、105打点(2位、いずれも10月12日時点)と、二冠に向けていずれも巨人・岡本和真とマッチレースを演じている。だが、村上はかねてこう公言してきた。「狙えるのならしっかり狙って獲りたい。ただ、初タイトルより優勝したいという気持ちが強い」 東京ヤクルトは10月8日の阪神戦に勝利してマジック11が点灯し、6年ぶりのリーグ制覇も目前だ。村上はこの夏、東京五輪・決勝のアメリカ戦で左中間に先制本塁打を放って日本に金メダルをもたらし、つい先日は清原和博を抜く21歳7か月の史上最速で通算100本塁打に達した。 村上が天王山を迎えていた頃、私は阿蘇くまもと空港に降り、熊本城内にある藤崎台球場に向かった。九州学院高校時代に肥後のベーブ・ルースと呼ばれた若きスラッガーの足跡を辿っていると、街中いたるところにあるご当地キャラ「くまモン」のポスターやぬいぐるみも、村上に見えてくる(実際によく似ている)。 この日、藤崎台球場では秋季熊本大会の準々決勝が行なわれていた。熊本工業との伝統校対決に敗れた九州学院にも、村上によく似た球児がいた。その名は村上慶太。村上の5歳下の弟である。身長は190cmを超え、16歳時点の体つきは兄に勝る。兄と同じ右投げ左打ちの慶太は、先制打に加え、左中間に大きな二塁打を放った。逆方向への強い当たり、それもまた兄の真骨頂である。「センターから逆方向の意識は常に持っています。兄は兄、自分は自分ですが、将来的にはプロ野球で活躍できる選手になりたい。ポジションはファーストとサードです」 ピンチとなれば真っ先に投手に駆け寄って激励し、仲間の好プレーには誰より大きなジェスチャーで喜びを共有していた。そういうところもまた、兄とうり二つだ。地元の星となるべく地元の高校に 2000年2月2日に3312gで生まれ、三兄弟の次男として育った村上は、父と兄の影響を受け5歳から野球に励むようになる。託麻南小学校では軟式野球チームに入り、6年生の11月からは2歳上の兄も所属していた硬式野球の熊本東リトルシニアに入団する。「身体はお兄ちゃんや弟の方が大きかったけど、とにかく遠くに飛ばすことにかけては天性のものがあった。スイングスピードも速かったですが一生懸命に力を込めたから打球が飛ぶわけではない。力を抜いて、リラックスした状態でボールを飛ばすコツを知っていた」 そう話したのは吉本幸夫監督だ。当時、空港に近い益城町にあった練習グラウンドは、右翼が80mしかなく、13mほどの高さのネットを越えた先には農家の小屋があった。左打者である村上の打球はよく、小屋の石膏スレートの屋根を直撃し、穴を開けていた。「頻繁に穴を開けるものだから、あらかじめスレートの板を用意しておいて、打球が飛ぶ度にお父さんが謝りに出向いて、自ら屋根を取り替えていました(笑)。今となっては良い思い出ですね」 中学時代の村上は、九州選抜の一員として台湾遠征なども経験した。当時の仲間には、増田珠(福岡ソフトバンク)や、先月、引退を表明したオリックスの西浦颯大らがいた。ふたりと共にU-15侍ジャパン入りも目指したが、村上だけが選に漏れてしまう。 高校進学にあたっては、他県の強豪校も考えはしたものの、地元の高校から甲子園を目指し、地元民から応援されるプロ野球選手になる誓いを立て、九州学院に進学する。同校の坂井宏安監督が入学してきた村上を初めて見た時、「こんなに野球のユニフォームが似合う男はいない」と、その着こなしに目を見張った。そして、いざ練習に参加すればとにかくトスバッティングが上手だった。「しっかり芯でミートするんだけれども、下半身の、とりわけヒザが柔らかく使えていた。私は入学直後から4番を任せた村上に対し『ゴロは打つな。ボールに角度をつけろ』と伝えていました。ボールの下にバットを最短距離で入れて、バックスピンをかけて飛ばしていく。だから凡打でも、高い内野フライはOKだった。三振は確かに多かった。見逃しはダメだが、空振りならいくらしてもいいと指導しました」贈られた「臥薪嘗胆」 当時は無名の肥後もっこすでしかなかった村上の名はすぐに全国区となる。夏を前に九州学院は早稲田実業との交流戦に臨む。当時、早実には鳴り物入りで入学してきた清宮幸太郎がいた。大勢の記者が、清宮の一挙手一投足を追って熊本までやってきていた。その前で、清宮より先に藤崎台の左中間スタンドに放り込んだのが村上だった。坂井監督が振り返る。「入学した時から引っ張るだけの選手ではありませんでした。筋肉も性格も赤ちゃんのように柔軟なんです。左打者だからといって右に飛ばそうという意識はなかったし、すべてのコースをフルスイングできるように準備した結果、逆方向にも打球が飛んでいった」 その夏、村上は清宮と共に甲子園の舞台に立つ。だが、4打数無安打で、初戦敗退。甲子園の経験は、結局、この一度きり。その後、村上は中学時代の定位置である捕手として、守備でもチームの要に。高校最後となった2017年夏、前年の熊本地震の爪跡が残る藤崎台球場で、村上は鍛治舎巧監督(現・県立岐阜商業監督)が率いた秀岳館の好投手を前に、クルクルとバットが空を切っていた姿しか印象にない。鍛治舎監督が振り返る。「変化球を捉えるのが上手な選手でした。ただ、秀岳館には田浦文丸(現・福岡ソフトバンク)と川端健斗(立教大4年)の、145キロを超す左投手がふたりいた。村上君対策はなく、『変化球を見せ球にして、アウトコース高めに真っ直ぐを投げていれば三振がとれる』とだけ指示していた。外角高めは、力が必要となりますが、それを打ちこなすだけの域には達していなかった。卒業から実質3年で100本塁打ですか。見事に克服しましたよね」 毎年、夏の甲子園が終わると、U-18侍ジャパン(高校日本代表)が結成される。だが、左の長距離砲として選出されたのは清宮、安田尚憲(履正社から千葉ロッテ)のふたり。またしても村上は代表ユニフォームを着ることはできなかった。失意の村上に、坂井監督は「臥薪嘗胆」の四文字を贈った。「大きく成長するために、耐え忍ぶ時期だった。侍ジャパンはプロの舞台で辿り着けばいい。入団する時も、契約金7500万円の年俸720万と、ドラフト1位で誰よりも低かった。清宮、安田は契約金1億の年俸1500万円でしたから、およそ半分。それも反骨につながっていると思います」 それから4年後、侍ジャパンのユニフォームを着て、五輪金メダルに輝くのだから、村上は悔しい経験を見事、糧とした。(後編へ続く)【プロフィール】柳川悠二(やながわ・ゆうじ)/1976年、宮崎県生まれ。法政大学在学中からスポーツ取材を開始し、主にスポーツ総合誌、週刊誌に寄稿。著書に『永遠のPL学園』(小学館文庫)。2016年、同作で第23回小学館ノンフィクション大賞を受賞。※週刊ポスト2021年10月29日号
2021.10.19 16:00
週刊ポスト
3冠王の期待もかかる村上宗隆(時事通信フォト)
HR量産のヤクルト・村上宗隆 宮本慎也氏「500本は確実に打つでしょう」
 現在、快進撃を続けるヤクルトの優勝へのキーマンが主砲・村上宗隆。3年前のドラフトで「清宮(幸太郎)の外れ1位」だった彼は、いかにして躍進を遂げたのか?  ノンフィクションライターの柳川悠二氏がレポートする。(前後編の後編、前編は〈ヤクルト・村上宗隆「清宮の外れ1位」が覚醒するまで〉) 2017年のドラフト会議で、村上は7球団が競合した清宮幸太郎の抽選に外れた3球団に指名され、交渉権を引き当てた東京ヤクルトに入団した。背番号「55」を付けた村上のプロ第一号は、一軍に初めて昇格した2018年9月16日の初打席だった。弾丸ライナーでライトスタンドに飛び込んだ。55番の偉大なる球界の先輩・松井秀喜が高津臣吾(現・東京ヤクルト監督)から放った第一号とまったく同じ軌道であり、その一発は2000年代生まれの選手として初めての本塁打だった。 その年からヤクルトのヘッドコーチに就いていた宮本慎也氏は、村上の初本塁打をベンチから見守った。「第一号本塁打を見てもらうと分かるんですが、あの頃の村上はテークバックが非常に浅いんです。あれではプロの速い力のあるボールが打てず、それを気にするあまり低めのボール球を振り出すのは先人が証明してくれているんです」 ゆえに、秋季キャンプで、宮本氏は村上にそれを伝え、テークバックを深くした素振りを命じた。「すると、わざと変なスイングをした。間違いなく、あれはわざとでした。なるほど、この子は頑固やな、本人が気付くまでこちらは我慢せなあかんな、と思いましたね」 翌2019年シーズン、村上は開幕から一軍に帯同し、スターティングメンバーに名を連ねた。「案の定、打てませんでしたよね。ところが、この試合で打てなければいよいよスタメンから外すという巨人との試合で、菅野智之から2本のヒットを打った。レギュラーを獲ってのし上がっていく選手って、こういう巡り合わせにありますよね。それで結局、起用され続け、最終的には36本打ったのかな」 3年目の昨年は試合数が少なかったものの、28本塁打を放ち、打率は前年の.231から.307に大きく上昇した。「正直、打率はもう少し時間がかかると思っていました。1年目は闇雲に真っ直ぐだけを待って対処していた。初めての一軍なんですから、それぐらいでいいんです。昨年ぐらいから打席で考えはじめ、今年になると変化球を待っているのか、真ん中の真っ直ぐを簡単に見逃したりする時もある。1年目に比べればテークバックは深くなってきました。それは石井琢朗(現・巨人三軍野手コーチ)の功績。素振りの時、上げた右膝にバットのグリップをタッチしてから、バットを引いてトップを作り、振り出していく。今もその素振りをやっているはずです。大事に取り組んでほしい」叱責された村上は涙を落とした 辛口評論で知られる宮本氏だが、村上に対してむしろ褒め称えることも多い。「まずヘラヘラしない。悔しさを顔に出しますよね。打てなかったからといって、道具に当たったりしない。それにグラウンドでも常に声を出し続けている」 期待値が大きいからこそ、時に、投げかける言葉は辛辣になる。初めて一軍で迎える開幕を前に、宮本氏は村上と約束を交わしていた。《監督はお前を我慢して使い続けると言っている。お前は19歳で、本来なら鍛えなければならない時期だ。試合にベストのコンディションで臨むのはもちろん大事だけど、与えられたランニング、ウエイトトレーニングのメニューも必ずすべてこなしなさい》 しかし、一軍の試合にスタメン出場を続けて疲れも蓄積していたのだろう。5月から6月にかけて、メニューをこなしきれない村上がいた。当初は見て見ぬふりをしていた。チーム状況も下位に沈む状態で、村上に4番を任さざるを得ない時期もあった。すると、練習態度に不遜が感じられた。そして広島のマツダスタジアムでの試合後、コーチ室の前で雷を落とした。「グズグズと言い訳する村上をすべて論破し、説教しました」 コーチ陣の前で叱責された村上は、涙を落とした。また19年のオールスターが終わると、村上が髪型をアシンメトリーにカットしてきたことがあった。宮本氏は今度は「その頭はなんだ!」と、まるで校則の厳しい学校の教師のように叱った。「僕はね、村上をヤクルトの4番ではなく、日本の4番にしたかった。言動や練習態度はきっちりさせたかった。村上は球団から期待されて、他の選手よりチャンスをもらっているんだから、厳しくなるのは当たり前。まあ、村上は僕のことは嫌いでしょうね(笑)」 村上は高校時代、試合中のベンチや移動のバスでは坂井監督のそばに座った。プロとなっても、入団当初は小川監督や宮本氏、現在なら高津監督の側に陣取って戦況を見守っている。「それがあの子の野球に対する姿勢ですね。昔、野村克也監督の横に古田(敦也)さんが座り、その横に僕ら若手が座っていた。僕らは座らされていましたけど、村上は自ら率先して座っている。このまま成長を続ければゆうに3割を超えて、50本は打てる逸材。普通に日本のプロ野球でやっていたら、500本は確実に打つでしょう」 だからこそ、優勝を争う中で、初のタイトルを、それも二冠を──。それを達成した時、村上は令和の怪童となる。【プロフィール】柳川悠二(やながわ・ゆうじ)/1976年、宮崎県生まれ。法政大学在学中からスポーツ取材を開始し、主にスポーツ総合誌、週刊誌に寄稿。著書に『永遠のPL学園』(小学館文庫)。2016年、同作で第23回小学館ノンフィクション大賞を受賞。※週刊ポスト2021年10月29日号
2021.10.19 16:00
週刊ポスト
プロ注目の「高校BIG3」といってもイマドキの高校生だ(左から森木、小園、風間)
ドラ1候補「高校BIG3」小園・森木・風間を繋ぐ「イマドキ球児のSNS事情」
「プロ野球ドラフト会議」が10月11日に開催される。今年の高校生の注目株で、競合が予想されるのが市立和歌山の小園健太、高知の森木大智、ノースアジア大明桜の風間球打の「高校BIG3」だ。実はその3人は直接の面識はないものの、「SNS」を通じて頻繁に連絡を取り合っているという。ノンフィクションライターの柳川悠二氏が、ドラフト候補の高校球児たちの“イマドキ”なスマホ事情をレポートする。   * * *  夏の甲子園決勝が行なわれた数日後、プロ志望届を提出したばかりの小園を訪ねると、「昨日も森木とは電話しました」とこっそり教えてくれた。  「森木はトレーニングに対する意識が高い。体幹トレーニングを教えてもらっています」   はて、小園と森木はこれまでいったいどこで接点があったのだろうか。   小園は今春の選抜で甲子園のマウンドに立ったものの、森木は高知県内のライバル・明徳義塾の牙城を崩せず、聖地の土を一度も踏めなかった。中学時代も小園が硬式、森木は軟式の出身で接点がないはずだ。  「森木とは会ったことがありません(笑)。インスタグラムでダイレクトメッセージを送って、LINEを教えてもらいました。(天理の)達孝太も連絡先を知っています。達は自分にない身長(193センチ)を持っている。ちょっとだけ羨ましく思ったりします」   これまでトップ選手の交流の場といえば、夏の甲子園後に招集され、国際大会に臨むU−18侍ジャパン(高校日本代表)だった。18歳の球児が長い時間を共にし、将来の夢を語り合う中で、それまで大学や社会人野球に進もうと考えていた球児が一転して、プロ志望届提出を決断することも珍しくない。   だが、昨年、今年と新型コロナウイルスの感染拡大によって国際大会が中止となり、招集は見送られている。世代を代表するような球児にとって、高校日本代表に代わる交流の場が、インスタグラムやツイッターなど「SNS」となっているのだ。小園によれば、同じドラ1候補のノースアジア大明桜の風間ともSNSを通じて連絡を取り合っているという。  「1年生の頃からずっと、U−18は目指していました。それがなくなったのは残念ですが、いつか日の丸を背負えるように頑張っていきたいです」(小園)   また小園と中学時代からバッテリーを組む松川虎生(こう)も今年の高校生を代表する強肩強打の捕手で、ドラフトに自身の将来をゆだねる立場だが、今夏の甲子園の準決勝の夜、ある球児からLINE電話が入ったという。  「今日の俺のバッティング、どうやった?」   そう感想を求めたのは、和歌山大会の決勝で敗れた智弁和歌山の4番で、翌日に決勝を控えていた徳丸天晴だった。  「和歌山で戦ったライバルとして、意見を求めてくれたのは嬉しかったですよ。他にLINEでやりとりするのは、愛工大名電の田村俊介。中学生の時に『ビートたけしのスポーツ大将』(テレビ朝日系)という番組に一緒に出たんです。軟式野球部のはずなのに、打席では硬式球をバンバンスタンドに放り込むんです。えぐいな、と思って以来、交流があります」(松川)   SNSの利用を禁止する野球部もあるが、こうして交流が生まれ、互いに刺激を受け、さらなる成長の一助となるなら利用価値はあるだろう。スマートフォンやiPadなどのデバイスは、今や練習で欠かせないアイテムだ。素振りや投球フォームを記録するだけでなく、YouTubeでプロ野球選手の動画を観て参考にしたり、トレーニング動画で研究している球児は多い。   昨年、仙台育英(宮城)の練習に行くと、選手たちが監督室で須江航監督の練習メニューの指示を聞きながら、携帯電話にメモしていた。きっと部員でメモの内容を共有するのだろう。   一方で、携帯電話の利用を禁止する学校もある。有名なのは、名門・大阪桐蔭だ。西谷浩一監督にその理由を訊いた。 「野球部だけでなく学校が持ち込みを禁止しているからです。時代が変化しているのは理解していますし、色々と活用法があるのはわかっていますが……」   大阪桐蔭の野球部は全員が寮生活だ。せっかく野球に集中する生活を送っているのに、そこにスマートフォンがあると邪念が生まれたりする懸念はあるだろう。大阪で大阪桐蔭と並ぶ名門の履正社も、携帯電話は学校の規則で禁止だった。ところがこの7月から解禁となった。岡田龍生監督にその理由を訊ねた。  「携帯電話を禁止している大阪の私立は、うちと大阪桐蔭と、たしかもう1校あるかないか。これだけ携帯電話が普及している時代に、逆行する流れではありましたよね。今は解禁になったばかりで、細かなルールを職員同士で話し合っています。   うちの野球部の場合、選手は『通い』ですから、これまで雨で練習試合が決行できるかどうか不安な時など、遠方から通う選手は途中で公衆電話から連絡を入れることもあったんです。そうした連絡も、携帯電話を許可していたら共有しやすい。それは保護者への連絡も同じです。ただ、寮生活の野球部は導入しないほうがいいかもしれない。ややこしいことが部内で起こった時に、情報が親にダダ漏れになってしまうから(笑)」   今ではグラウンドにポケットWi-Fiを持ち込み、岡田監督自ら選手のバッティングを動画撮影し、選手の携帯電話に転送することもあるという。投手の投じるボールの回転数や回転軸、球速などを計測する「ラプソード」を導入する学校も増えている今、携帯電話もまた球児の成長に必須の練習器具といえるかもしれない。  ■取材・文/柳川悠二(ノンフィクションライター) 
2021.10.08 16:00
NEWSポストセブン
高知高校・森木大智の軌跡を振り返る
ドラフト注目・森木大智はなぜ甲子園に出られなかったのか【前編】
 10月11日、プロ野球のドラフト会議が開催される。今年の注目は「高校BIG3」と呼ばれる3人の高校生右腕だが、そのなかに一度も甲子園の土を踏めなかった球児がいる。高知高校の森木大智。「150キロを投げた中学3年生」として注目を集めながら分厚い壁に阻まれ続けた森木の軌跡を、ノンフィクションライターの柳川悠二氏がレポートする。(文中敬称略。前後編の前編) * * * 秋のドラフト会議(10月11日)まで2週間というのに、高知高校のグラウンドは30度を超える蒸し暑さに包まれていた。 来春のセンバツを目指して練習に励む後輩たちから離れたブルペンで、森木大智は学校が借りているという「ラプソード」(ボールの回転数や回転軸、球速を計測する機械)を使ってストレートの回転数(毎分)を計測していた。ある一球を投じた時、森木が驚きの声をあげた。「おおおっ、メジャーリーガーの数値が出た(笑)。でもこれ、絶対に(計測器の)バグっしょ」 トータルスピン量が「2730」と表示されたのだ。甲子園に出るような球児でおよそ2000回転、山本由伸(オリックス)や千賀滉大(福岡ソフトバンク)といった日本プロ野球のトップ選手が2500回転程度とされる。異次元のスピン量に計測器の不具合を疑っていたが、無限大の可能性を感じるボールであることには違いない。「自分のストレートは(ボールの傾きを指す)ジャイロ成分が強く、抜けることもある。できるだけ綺麗な真っ直ぐの回転で、ボールが打者のバットの上を通過するイメージを追求したい。もちろんストレートだけでは抑えられない。こうした機械も使って、変化球の精度も上げていきたい」 中学時代に軟式球で150キロを記録し、森木は今年の高校3年生世代で誰よりも早く、大きな注目を浴びた。 だが、一度も甲子園のマウンドを踏むことなく、2年半の高校野球生活を終えた。 森木を初めてインタビューしたのは高校入学直後の2019年春だった。「小さな頃からずっとプロ野球選手になりたいと思っていました。(中高一貫校の)高知中学を選んだのも野球を職業にするためです。中学生というと、身体が成長し、変化していく時期。規則正しい生活を送って、しっかり食事も摂って、野球やトレーニングの知識を増やしていきたいです」 同校監督の浜口佳久は長く系列の高知中学で軟式野球部の監督を務め、森木を擁して中学日本一を達成。直後の2018年秋に高校の硬式野球部監督に就任していた。 もし浜口が監督に就任しなければ、熱心な勧誘を受けていた大阪桐蔭や中学時代に日本一を争ったライバルがいる宮城・仙台育英に森木は進んでいたかもしれない。浜口監督と共にもう一度日本一を目指す──それが高知高校に進学した理由だ。また中高一貫校の場合、高野連に届け出れば、中3の秋から高校の練習に参加できることも、軟式から硬式にボールが変わる森木には幸いした。当時、浜口はこう話していた。「中高一貫校に導くということは、その子の幼少期、小学生時代から関わることになる。少年野球時代の故障とか、ポジション歴を頭に入れた上で、中学で指導にあたれるのは大きいです。どこまで無理をさせられるのか、どういう成長段階にあるのか、ということを把握しているわけですから」「甲子園は5回出たい」 当時の森木は高校野球では何の実績もない一球児に過ぎなかった。それでも、150キロという数字が一人歩きし、怪物の登場を待ちわびる高校野球のファンは過度な期待を寄せてしまうもの。誰より森木自身が、未来にこう期待を抱いていた。「目指す球速は165キロですが、150キロのキレのあるボールを安定して投げたい。ホームランも、最終的には50本ぐらいは打ちたい。そのためにも甲子園はこの1年の夏から出て、卒業までに5回出たい」 高い頂を目指すのであれば、15歳の時点でこれくらいの大言を口にできなければならないだろう。 しかし、私がこの発言を記事にしたことで、あの名伯楽にして策士、甲子園通算54勝(2021年現在)を誇る明徳義塾高校監督・馬淵史郎の闘志に火をつけることになる。 野球王国・高知といえば、明徳義塾。明徳といえば馬淵だ。1992年夏の甲子園で、星稜(石川)の松井秀喜に対し、5打席連続敬遠を指示し、高校野球界一の嫌われ監督となった馬淵も、2002年夏には全国の頂点に立った。 明徳が長く高知で一強時代を築き、古豪・高知高校は夏に限っては2009年を最後に甲子園から遠ざかっていた。森木が聖地にたどり着くために、越えなければならない大きな城壁が馬淵だった。 その一方で、馬淵も窮地に立たされていた。高知中学とライバル関係にあった明徳中学で、テレビなどにも取り上げられていた関戸康介(大阪桐蔭)、田村俊介(愛工大名電)というふたりの有望選手が明徳義塾進学を選ばなかったのだ。さらに森木という豪腕が県内にいることで、明徳中学の約10人が明徳を離れるというのっぴきならない事件が起きていた。 甲子園で激闘を演じた横浜の渡辺元智が勇退し、智弁和歌山の高嶋仁も高校野球の現場を離れた。いずれも馬淵にとっては大先輩だが、同じ時代を生きた名将が監督を退く中で、還暦を過ぎてなお強烈なカリスマ性を誇示していた馬淵の求心力も失われつつあるのではないか。 そして人里離れた谷間に位置する「野球道場」と名付けられたグラウンドで、野球漬けの日々を送ることを、現代の球児は敬遠しているのではないか。森木が高校生となった頃、野球道場で馬淵にぶつけたことがある。「そうは思わんよ」 その静かな声色には怒気もこもっていた。 馬淵時代の終焉か、そして森木が飛躍するのか──。その答えが出るのが、森木が3年生となる2021年夏だった。現代の高校野球を代表する名将にかように無礼な質問を投げかけたからには、顛末を見届けようと高知に通い続けた。(後編に続く)取材・文/柳川悠二(やながわ・ゆうじ)ノンフィクションライター。1976年、宮崎県生まれ。法政大学在学中からスポーツ取材を開始し、主にスポーツ総合誌、週刊誌に寄稿。著書に『永遠のPL学園』(小学館文庫)。2016年、同作で第23回小学館ノンフィクション大賞を受賞。※週刊ポスト2021年10月15・22日号
2021.10.07 16:00
週刊ポスト
プロも注目する森木大智
ドラフト注目・森木大智はなぜ甲子園に出られなかったのか【後編】
 10月11日、プロ野球のドラフト会議が開催される。今年の注目は「高校BIG3」と呼ばれる3人の高校生右腕だが、そのなかに一度も甲子園の土を踏めなかった球児がいる。高知高校の森木大智。「150キロを投げた中学3年生」として注目を集めながら分厚い壁に阻まれ続けた森木の軌跡を、ノンフィクションライターの柳川悠二氏がレポートする。 野球王国・高知といえば、馬淵史郎監督率いる明徳義塾。明徳が長く高知で一強時代を築き、古豪・高知高校は夏に限っては2009年を最後に甲子園から遠ざかっていた。森木が聖地にたどり着くために、越えなければならない大きな城壁が馬淵だった──。(文中敬称略。前後編の後編) * * * 両者の初顔合わせは2019年夏の高知大会決勝だった。森木は1年生ながらエースナンバーを背負い、3回途中からマウンドに上がった。打者としては高校第1号の一発を放つも、3失点を喫して1対4で敗れてしまう。「150キロの投手が相手でも、120キロしか出ない投手が踏ん張って勝つことができた。高校野球のお手本のような試合ができた」 試合後、そう高笑いしたのは馬淵だ。大会の2か月前から打撃マシンを150キロに設定して森木対策を周到に講じ、それが功を奏した。 その後、森木はヒジに違和感を覚え、1年秋は主に野手として出場。センバツにはたどり着けなかった。 当時を高知高校監督の浜口佳久はこう振り返った。「中学時代の150キロが、本人にとって重荷になっていた。150キロの壁がなかなか越えられないという焦りをボソッと口にしたこともありました。ただし、単純に速いボールを投げられるだけでは抑えられないことを分かってきた時期でもあったと思います」 コロナ禍に見舞われ高知県独自大会となった昨夏は3年生にベンチ入りを譲った。昨秋の高知大会はやはり明徳との対戦となり、相手エースの代木大和と延長12回を投げ合い、1対1のまま日没を迎えた。翌々日の再試合では敗れてしまう。 直後に行なわれた秋季四国大会で勝利すればセンバツ出場に近づく高松商業戦も2対5で敗れた。その試合を「高校に入って一番悔しい敗戦だった」と振り返ったのは今春だった。 そして、最後の夏、決勝の相手は明徳。先発した森木は2対2の同点9回のマウンドに上がった。だがその時、森木の身体に、その長い指に、異変が起きていた。握力が失われ、力のこもったボールを投げられない。結局、ピンチでマウンドを譲ることとなり、森木の夢は潰えた。 明徳にとって21度目となる夏の甲子園出場を決めた試合後、馬淵は大会前に一度も甲子園にたどり着けていない高知高校が「優勝候補の本命だ」とする記事に怒りを覚えたと打ち明け、2年半前に目にした森木のコメントにも言及した。「入学した頃、『5回甲子園に行く』と公言しとった。素材は抜群やけど高校野球はそうそう甘くはない」 その発言の真意を訊くべく、私は明徳の新チームの秋季大会初戦にも足を運んだ。勝利後、駐車場に向かう馬淵を呼び止めた。「うちとの決勝では初回から150キロを投げとった。スピードにこだわらなくても、135キロぐらいのボールで十分に抑えられるはずなんですよ。初回からあれだけ力を込めて放っておったらそりゃあ、9回までもちません。私はね、森木に対して特別な対抗意識を持ったことはない。明徳の監督としてやるべきことをやった。それだけです」 だが、運転席に乗り込むと、こう付け加えた。「明徳も森木には成長させてもらいました」 この言葉こそ、馬淵がようやく口にした本音ではなかったか。「将来はメジャーに」 最後の夏が終わってからおよそ2か月。私は森木に謝らなければならないことがあった。森木が高1の春、「甲子園に5回行きたい」という彼の言葉をそのまま挑戦状として叩きつけ、結果として馬淵を焚き付けてしまった。「そんなの全然、気にする必要ないっす。結局、自分にそれを跳ね返す実力がなかっただけ。馬淵監督の野球はやっぱり手堅かった。バントにしても、決めるところを決めて、得点に結び付けていく。あと、自分に対して、いやらしいことを言ってきそうな雰囲気を常に出していましたよね」 それは今春のやりとりを指しているのだろう。春の高知大会の試合後、森木は初めて馬淵と言葉をかわした。馬淵は高校生の森木に対して、こんなことを言ったという。「秋のほうがボールがきていた気がするなあ」 それが本音かどうかは分からない。「馬淵監督の目から見てそれが事実だったとしても、『そんなことはないっす』と言える自分だったら良かったんです。でもその言葉を真に受けてしまって、いろいろと考えてしまった。その時点で僕は負けていた」 報道陣を使って、情報を発信して相手監督や選手の動揺を誘うのも老練な馬淵の成せる業だろう。「それこそ自分も、柳川さん(筆者)のインタビューで『明徳には負ける気がしない』と言ったことがあったと思うんです。挑発によって馬淵監督や明徳ナインには空回りしてほしかったんですけど……空回りしたのは自分だったかもしれません」 市立和歌山の小園健太、ノースアジア大明桜の風間球打と共に森木は、高校ビッグ3と称され、今秋のドラフト1位候補と目されている。ちなみにふたりとは直接会ったことはないもののインスタグラムでつながり、トレーニングの情報などを交換し合う仲だ。「甲子園に行ったから良かった、行けなかったから悪かったということはないと思うんです。明徳に勝てなかったから成長できた、あの敗北を糧にできたから進化したといつか思える野球人生を歩んでいきたい……これも負けたから口にできることかもしれません」 各球団から調査書が届き、面談もおおよそ終わっていた。運命のドラフトを前に、森木は「12球団OK」の構えだ。「ただ、将来的にメジャーに行きたいという目標は伝えさせてもらっています。自分が良い状態の時にアメリカに行きたい。もちろん、そんな自分の思い通りに事が進むとも思っていません。特にファンだった球団はないですけど、できることなら、メジャーに挑戦させてもらえる球団に行きたい。高校で勝てなかった分、上の舞台でしっかり勝てるピッチャーになりたい」 森木の夢は馬淵に阻まれた。甲子園には届かずとも、森木を成長に導いてくれたのもまた、馬淵ではなかったか。チームに勝利を呼び込む怪物へと成長を遂げるのはプロの舞台である。取材・文/柳川悠二(やながわ・ゆうじ)ノンフィクションライター。1976年、宮崎県生まれ。法政大学在学中からスポーツ取材を開始し、主にスポーツ総合誌、週刊誌に寄稿。著書に『永遠のPL学園』(小学館文庫)。2016年、同作で第23回小学館ノンフィクション大賞を受賞。※週刊ポスト2021年10月15・22日号
2021.10.07 16:00
週刊ポスト
桑田真澄、清原和博
甲子園20勝の桑田真澄 球数は「週500球以内」の現行ルール内だった
 1年夏から甲子園制覇を果たし、5季連続出場、3年夏も深紅の大優勝旗を手にする──100回を超える歴史のある夏の高校野球において、1983~1985年のPL学園における桑田真澄と清原和博ほど鮮烈な印象を残したコンビはいない。 PL学園の1期生で、1962年に監督として同校を初めて甲子園出場に導いたあとは選手を勧誘する担当となった“伝説のスカウトマン”井元俊英、PL学園の名将・中村順司、リトルシニア時代から清原と対戦経験があり、のちにPL学園でチームメイトとなった今久留主成幸らが明かす「KK秘話」とは。ノンフィクションライターの柳川悠二氏がリポートする。(文中敬称略) * * * 2016年に休部となるまで、PLグラウンドのレフト後方には、屋内練習場が建っていた。 清原の打球はレフトのネットを越え、屋内練習場の屋根に頻繁に当たった。嘘か真か、そうしたド派手なパフォーマンスに機嫌を損ねる先輩がいたから、気兼ねした清原がライト打ちをマスターしたとも囁かれる。「飛んでいくんだから仕方ない。それも竹バットでオーバーフェンスするんですから。僕ら小物は、先輩の目を気にして、良い当たりをしたあとなんかは送りバントの練習に切り換えたりしていましたが、清原君はそんなことありませんでした」(今久留主) KKのふたりは1年夏の甲子園で夏春夏の3連覇がかかったあの池田と対戦し、桑田が投げるだけでなく、相手エース・水野(雄仁)から一発を放ち、勝利する。清原も決勝の横浜商戦でラッキーゾーンに第一号アーチを架けた。「清原には遠くへ飛ばす力と技術があった。その代は体が小さな選手が多かったから、チームのバランスを考えても清原は不可欠な存在でした」 中村はそう振り返る。 KKが2年生の秋、PL学園は秋季大阪大会準決勝で上宮と対戦する。同校の捕手は、大正中学時代の桑田とバッテリーを組んでいた西山秀二(元広島ほか)だ。現在、ラジオ日本で解説者を務める彼は、プロ時代も含めて、桑田ほど正確なコントロールの投手を知らないと語る。「桑田のボールを受けたことで、構えたところに放れるピッチャーが当たり前のように中学生の僕は思っていた。だから当時は、桑田がすごいとは思っていなかった。 でも、別の高校に入学すると、現実は違った。もっと言うと、僕がプロに入ってから、正確なコントロールで驚いた投手は(広島のエースだった)北別府学さんだけでした。つまり、桑田は中学生の時点で、プロのトップレベルと同じぐらいのコントロールを持っていたんです」キヨはバットを振ればいい 清原にとって大きな挫折は最上級生となって迎えた1985年のセンバツ、準決勝で伊野商業に敗れた試合だ。相手のエースはのちに西武で一緒になる渡辺智男。清原は3三振を喫した。その日の夜の屋内練習場では、清原が上半身裸で、体から湯気を出しながら剛速球を打ち込んでいる姿が幾人にも目撃されている。 この頃、井元は清原にアドバイスを送ったことがある。夏場の連戦に向け、清原の下半身に疲労が蓄積することを井元は危惧していた。ゆえに、足腰を鍛えておいたほうがいい。そんなつもりで清原に声をかけた。「桑田に頼んで一緒に走ったらどうだ?」 すると明くる日、清原から「断られました」という報告を受けた。井元は、桑田に理由を訊ねた。「どうも『僕のペースには絶対についてこられない。オレは走るから、キヨはその時間、バットを振ればいい』と伝えたらしいんです。以来、清原は全体練習終了後にグラウンドの外野フェンス沿いを素振りしながら何周もするようになった。その後は屋内でティバッティング。それが終わるタイミングに、ゴルフ場を走ってきた汗だくの桑田が帰って来るんです」 桑田は5回の甲子園出場で、学制改革後は最多となる通算20勝を挙げた。25試合に登板し、イニング数は197回と3分の2。防御率は1.55だ。 ただし球数は少なく、1985年のセンバツ準々決勝天理戦ではわずか82球で3安打完封した。今春から導入された「1週間に500球以内」という甲子園の球数制限に照らしても、桑田がそれに抵触するケースはなかった。中村が証言する。「当時の甲子園は、少なくとも準々決勝から3連投でした。桑田には『3連投に耐えられる体を作ろう』と話していた。桑田なりに考え、ノースローの時期を作ったりして、私もそれを容認しました。当時から『肩は消耗品』という認識を持って取り組んでいましたね」 1983年から1985年までは、元朝日放送アナウンサーの植草貞夫の言葉になぞらえるなら、「甲子園はKKのためにあった」だろう。 2001年にPL学園の暴力問題が発覚すると、井元はPLを追われ、その後、青森山田、そして現在は秋田のノースアジア大明桜で同様の役割を担っている。PL以外でもプロ選手を誕生させた。「PLに戻って野球部監督となったのが25歳の時。ちょうど60年。ようやってきたと思います」 甲子園に5季連続で出場した選手は、早稲田実業の荒木大輔(元ヤクルトほか)、最近だと智弁和歌山の黒川史陽(現楽天)など、過去に12人いるが、KKのようにふたり揃って抜群の実績を残したケースはない。「あれほどの才能が同じチームにそろって、4回も甲子園の決勝に進出する。そんなことは二度と起こらないでしょう」 伝説のスカウトマンは引退を考えているのだろうか。KKを回顧する言葉を受け、ふとそんなことが脳裏をよぎった。【プロフィール】柳川悠二(やながわ・ゆうじ)/ノンフィクションライター。1976年、宮崎県生まれ。法政大学在学中からスポーツ取材を開始し、主にスポーツ総合誌、週刊誌に寄稿。著書に『永遠のPL学園』(小学館文庫)。2016年、同作で第23回小学館ノンフィクション大賞を受賞。※週刊ポスト2021年8月20日号
2021.08.10 07:00
週刊ポスト
KKコンビは今も語り継がれる(写真/AFLO)
KKコンビをPLに導いた伝説のスカウトマン「努力の天才が2人いた」
 1年夏から甲子園制覇を果たし、5季連続出場、3年夏も深紅の大優勝旗を手にする──100回を超える歴史のある夏の高校野球において、1983~1985年のPL学園における桑田真澄と清原和博ほど鮮烈な印象を残したコンビはいない。ノンフィクションライターの柳川悠二氏が、PL学園の伝説のスカウトマンや最強世代の同級生が驚愕した「KK秘話」をいま明かす。(文中敬称略) * * * 85歳になる井元俊秀に指定されたのは、PL学園の最寄りとなる近鉄喜志駅から10分ほど歩く国道沿いの喫茶店だった。 伝説のスカウトマンとして、高校野球の世界で知る人ぞ知る井元との付き合いは6年になる。日焼けした肌は傘寿を過ぎているとは思えないほど若々しく、何より記憶力と、現場に通い詰める健脚ぶりにはいつも驚かされる。 ところがこの日は様子が違った。井元は杖をついて車から降りてきて、もともとの痩身がさらに痩せ細った印象を受けた。「あんたとも(中学硬式野球である)ボーイズの練習を見に行ったことがあったよね。子どもたちの練習なら、何時間だって眺めていられるんです。ところがコロナで大会が中止になり、練習も自粛となった。出かけることがめっきり少なくなり、足が衰えてしまった。さすがに年なのかなあ」 井元はPL学園の1期生で、1962年に監督として同校を初めて甲子園出場に導いたあとは、選手を勧誘する担当として、名将・中村順司と共に常勝軍団を築いた。もちろん、桑田真澄、清原和博のKKコンビも井元が入学に導いた。井元は言う。「5季連続で甲子園に出場して、桑田は20勝、清原は13本塁打を打った。あの時代、PLには努力の天才がふたりいた」 甲子園通算58勝、驚異の勝率8割5分3厘を残した元監督の中村は、桑田が大正中学2年生で、準硬式野球部に所属していた時に投球を目にする機会があった。その日は大阪大会の決勝で、相手中学のエースだった清水哲(のちにPLに進学)と投げ合った桑田は敗れている。「私は入学してくれた選手たちはフラットな目線で指導するのを信条としていた。特別な印象は覚えていません」(中村) 一方、井元が桑田をはじめて見たのは八尾フレンド(硬式)の練習に参加していた時だ。中学野球部を引退した桑田は、高校入学までの間、小学生時代に所属したチームで練習をしていた。「高校野球で活躍する投手は身長が174~175cmぐらいという持論が当時の私にはあった。PLでも体の大きかった尾花高夫や金石昭人などは、プロ野球の実績から考えると、高校時代は活躍できていません。現在のように大型の選手を成長させるトレーニングや医学的な知識がありませんでしたから」 その頃の桑田の身長は172cmぐらいだった。身長が伸びることを想定すれば、井元が理想とする体格といえた。「キャッチボールから違った。フォームが美しく、ボールに伸びがあった。ボールの回転もいい。すぐにご両親とお会いした。お父さんが社交的な人でね、息子のことをよく自慢しておった」 井元にとって清原との出逢いも忘れられない。泉大津の公園で練習していた岸和田シニア(硬式)を視察した時のことだ。広い公園の外野に、清原はとてつもない当たりを連発していた。当時は引っ張り専門のプルヒッターの印象だった。「学習院大学時代に、静岡県伊東市でキャンプを張っていた立教大の長嶋茂雄さんのバッティングを見たことがある。ミートしてから20mぐらいの打球の初速と角度に希有なホームラン打者の才能が詰まっていた。清原のバッティングを見て大学時代のチョーさんを思い出しました」入学前の“秘密合宿”で… 今久留主成幸は、自身が小中学時代に在籍した摂津リトルシニアと、清原の岸和田リトルシニアが大阪府の覇を争うライバル関係にあったこともあり、小学生の時から清原とは対戦経験があった。「関西では有名な選手で、体がとにかく大きかった。中学時代に神宮球場で対戦したこともあり、その時はセンターのフェンスを直撃する弾丸ライナーの二塁打を打たれたのが記憶にあります。清原君とは高校で一緒になるわけですが、その頃、関西で目立った選手はだいたいPLに入学しました」 1983年にPL学園の野球部に入部した31期生は27人(途中2人が退部して最終的には25人)。彼らが生まれた1967年は、丙午であることを忌避して出産を控える家庭が多かった前年の反動で、出生数が増加した。 寮のあるPLは、大阪府の私学連盟から「地方の子ども達を積極的に入学させてほしい」と依頼があり、野球部も地方出身者が多かった。ところが、この年は私学連盟から「生徒があふれることも考えられるため、大阪の子どもも入学させてほしい」と伝えられていた。そうしたいきさつがあり、大阪出身のKKも同時に入学。通常は一学年20人前後のPLにあって、27人が入部したのだ。 実は入学前の1月に、27人は鹿児島県の指宿に集められ、合宿が行なわれた。入学もしていない入部予定者だけでの合宿など当時も現在も許されていない。時代が黙認したのだろう。 今久留主は井元のこんな訓示から合宿がスタートしたことを覚えている。「春夏連覇できるメンバーを揃えたので、まず顔合わせをしたかった」 中学時代に所属したリーグごとに選手が固まる中、少数派である準硬式の桑田は寡黙な印象で、輪の中に積極的に加わろうとはしなかった。しかし、キャッチボールの相手を捕手の今久留主が務め、距離が40mほどに伸びた頃、桑田から「座ってほしい」と依頼された。「なんやこいつ偉そうに、って。そしたら地を這うようなボールがど真ん中に来た。ファーストインパクトにみんな驚いた」 PL学園から明治大、そして1989年のドラフトで大洋に入団した今久留主は西武を経て引退したのち、大洋でスカウトを務めた。その時、選手を見定める際の基準としたのが指宿合宿だったという。「桑田君のランニング時の蹴り足の強さ、清原君や田口(権一。KKと共に1年夏よりベンチ入りした投手)君の姿勢の良さや野球への取り組み方。もちろん、PLでは入学後、いろいろあって背中が丸くなっていくんですが(笑)、大成する選手の姿勢を見定めるうえで、あの時の原体験が判断の基準となっています」 KKはPL学園の入学前から伝説を残していた。 井元は桑田の入学を前に、社会人野球・神戸製鋼を率いて都市対抗を制した経験などがある清水一夫に、桑田への指導を依頼した。「今度、凄いピッチャーがPLに入学する。とにかく良い子で、特別な才能があると思うんです」 仕事が落ち着いていた時期で、二つ返事で了承した清水は、やはり桑田のキャッチボール姿を見ただけで、井元に伝えた。「この子は素晴らしい。将来が楽しみだ」 当初、3週間の指導の予定が、いつしか夏までに延びていた。桑田は清水との出逢いによって、カーブが曲がるようになったと証言している。【プロフィール】柳川悠二(やながわ・ゆうじ)/ノンフィクションライター。1976年、宮崎県生まれ。法政大学在学中からスポーツ取材を開始し、主にスポーツ総合誌、週刊誌に寄稿。著書に『永遠のPL学園』(小学館文庫)。2016年、同作で第23回小学館ノンフィクション大賞を受賞。※週刊ポスト2021年8月20日号
2021.08.09 07:00
週刊ポスト
御木貴日止氏が3代教祖になった年、KKコンビが登場(写真/共同通信社)
PL教団の3代教祖死去で「PL学園野球部」は復活するのか?
 桑田真澄、清原和博、立浪和義、宮本慎也、前田健太ら80人以上のプロ野球選手を輩出した名門・PL学園野球部が活動休止となったのは2016年夏のこと。「謎の休部」の背景には、学園の母体であるパーフェクトリバティー教団(以下、PL教団)の意向があったとされ、OBたちや高校野球ファンから活動再開を求める声があるにもかかわらず、復活には至っていない。そうしたなか、教団トップが亡くなった。野球部復活への道筋にどのような影響があるのか。『永遠のPL学園』などの著書があるノンフィクションライター・柳川悠二氏がレポートする。 * * * PL教団の3代教祖・御木貴日止(みき・たかひと)氏が亡くなったのは、12月5日だった。2007年以降は脳の疾患などによって車椅子生活を余儀なくされていた貴日止氏は、4日に体調が急変して病院に運ばれ、翌朝に息を引き取ったという。63歳だった。「会員(信者)さんが気にしているのは、やはり後継者がどなたになるかです。おしえおや様(PL教団における教祖の呼称)が体調を崩されていたこともあって教団運営に大きな影響力のある奥様の美智代様か、三男二女のお子様の中から選ばれるのか。有力視されているのは、PL病院の理事長秘書をされている30代のご長男です」 そう証言したのは、教団の元教師(布教師)だ。PL教団は後継者問題について「ノーコメントです」(渉外課)とするのみ。2代教祖が亡くなった年に「KKコンビ」が入学 大阪府の富田林市にあるPL教団の広大な聖地は、近鉄喜志駅と富田林駅にまたがり、正殿や信者が修行を行う錬成会館など大きな建物が点在する。小中高の一貫校であるPL学園の校舎やかつて硬式野球部が汗を流したグラウンドもまだ残っている。また、近隣には羽曳野丘陵を見下ろす大平和祈念塔やPL病院も建てられている。この聖地に足を踏み入れるには、特別なゲートで会員証を提示しなければならない。 貴日止氏の密葬が行われていた12月8日、全国から200人近い教団教師が参列するという情報が入っていた。私は外周を歩きながら中の様子をうかがったが、人の気配はまるでなく、入場ゲート付近に喪服姿の信者が数名いただけだった。 貴日止氏が教祖を引き継いだのは、1983年2月だ。ひとのみち教団を前身とするPL教団を立ち上げ、信者拡大に力を注いだ2代教祖・御木徳近(とくちか)氏が亡くなり、後継者に指名されていた貴日止氏が25歳という若さで神道系新宗教のトップに就く。 先代の徳近氏は「人生は芸術である」をPL処世訓の第1条に掲げ、信者の芸術活動を推奨。とりわけ野球を愛し、傘下に置くPL学園の硬式野球部の強化を図った。教会のネットワークを活用して全国の有望中学生の情報を集め、信者から集めた献金を投下して授業料などが免除となる特待生制度で選手を入学させた。 1970年代から80年代にかけて、甲子園のアルプススタンドを生徒と信者で埋めて巨大な人文字を描き、教団名を広く認知させる「広告塔」としても野球部を活用した。徳近氏が亡くなった1983年の宗教年鑑によると、当時の信者数は公称でおよそ260万人。教団の最盛期といえる。 貴日止氏が3代教祖となったこの年、PL学園に入学してきたのが桑田真澄、清原和博のKKコンビであり、野球部もまた黄金期を迎えた。ふたりは5季連続で甲子園に出場し、そのうち2度、全国制覇を遂げた。 貴日止氏は教祖に就いた年の12月に美智代氏と結婚し、三男二女を授かった。総理大臣経験者をはじめとする政財界やスポーツ界と人脈を持ち、強烈なカリスマ性のあった2代教祖に対し、まだ若い貴日止氏がリーダーシップを発揮するのは簡単ではなかっただろう。美智代氏との結婚に反対する幹部もいた。 そのうち2代を慕っていた信者が高齢化し、信者数は減少していく。追い打ちをかけるように貴日止氏は2007年に脳の疾患という健康問題にも直面する。そうしたなかで、教会の統廃合が進められた。その一方、聖地にログハウス、学園の小学生が住む寄宿舎を建設するなど、教団の規模からしては不釣り合いな建物が次々と建設された。3代教祖は「復活を考えていた」? 2代の時代から教祖一族を支えて来た人物が話す。「一連の教団改革を主導してきたのは、おしえおや様の奥様である美智代様ですが、2代様の遺産を取り壊すようなことが相次いだことで、心が離れていく会員さんも多かった。最近も正殿の移転計画があるとかで、信者から献金を募っていた。移転先は(教団が管理する)聖丘カントリー倶楽部の3番ホールと7番ホールにかかるようで、そこに移転するとなればコースを改造しないといけなくなるので簡単にはいかないはずですが……」 現在の信者数は公称でおよそ70万人。「実際の数はその10分の1にも満たないでしょう」というのは教団の機関紙『芸生新聞』の発行に携わったことのある元信者の証言だ。信者の高齢化が進み、学園に入学を希望する2世・3世も減少していくなかで起きたのが、2016年7月の学園野球部の活動休止だった。 部内で起きた度重なる不祥事が活動休止へと舵が切られる大きな要因だったが、入学試験を受ける中学生の数が、定員の3割にも満たない学園がそもそも存続の危機にあることが背景にあった。 休部となる直前の2016年4月には、野球部が練習中のグラウンドに突然、貴日止氏と美智代夫人がやってきたという話を当時の部員から聞いた。貴日止氏は1塁側のファウルゾーンに椅子を置き、練習をしばらく眺めていたという。甲子園で春夏7回の優勝、通算96勝をあげた野球部の姿を最後に見ておこうという考えだったのだろうか。 野球部のOBが出場した昨年11月のマスターズ甲子園の際には、3代教祖の貴日止氏が人文字応援を許可し、教祖の代理人が「マスコミは廃部などと言っていますが、近い将来、おしえおや様は復活を考えていらっしゃいます。まずは指導者を探しましょう」とOB会の新会長に就任した桑田真澄に伝えたという。だが、その真意も今となってはわからない。 3代の死去によって、あるいは新たな教祖の誕生によって、全国の高校野球ファンが願ってやまない硬式野球部の復活の道筋が開くことはあるだろうか。 いや、何も変わらないだろう。野球部を復活させる以前に、教団の再建が4代には求められるからだ。■取材・文/柳川悠二(ノンフィクションライター)
2020.12.15 07:00
NEWSポストセブン
都知事選 売名目的で出馬する「泡沫候補」が増えた背景
都知事選 売名目的で出馬する「泡沫候補」が増えた背景
 7月5日投開票の東京都知事選は、小池百合子氏(67)の“圧勝再選ムード”でつまらない──そう決めつけていないだろうか。実は、新聞やテレビが「主要5候補」としか報じない裏では、史上最多となる22人が名乗りをあげている。その“あまりに個性的な選挙活動”に、ノンフィクションライターの柳川悠二氏が密着した。(文中敬称略) * * * 令和2年の都知事選には、過去最多となる22人が立候補している。現職の小池に、野党3党の支援を受ける元日弁連会長・宇都宮健児(73)、れいわ新撰組代表の山本太郎(45)、元熊本県副知事の小野泰輔(46)にホリエモン新党公認の立花孝志(52・NHKから国民を守る党党首)を加えた5人が大手メディアが「主要候補」とする候補者だ。 一方、国政選挙や大都市の首長選挙の無名候補者は大手メディアから「泡沫候補」と扱われ、活動が紹介されることは限定的だ。 今回も“へそくり”から供託金やポスター代を用立てた薬剤師の長澤育弘(34)や、自身が立ち上げた国民主権党党首にしてユーチューバーの平塚正幸(38)、2016年の都知事選・政見放送で“放送禁止ワード”を連呼して一部に鮮烈な印象を残した後藤輝樹(37)、政治団体「スーパークレイジー君」代表の西本誠(33)などが立候補している。 こうした無名の候補が注目されるようになったのは、この10年ほどだろう。 各地の選挙に出馬した羽柴秀吉こと三上誠三氏は2015年に死去し、コスプレでスマイルダンスを踊る泡沫候補の代表格、マック赤坂は港区議となったことで“表舞台”から姿を消した。思い返すと、羽柴もマックも、どこか哀愁が漂い、その挙動には可愛げが、愛くるしさがあった。 だが、今回の取材では、明らかな変質が感じられた。30代の若い候補者が多く、そして、多くがYouTubeにチャンネルを持っていた。自身も出馬した立花氏はこんな見立てを披露する。「政見放送がYouTubeなり、SNSに誘導するためのツールとなる。たった300万円の供託金で、NHKで6分の政見放送が2回、民放でも1回放送してくれる。安く見積もって1億円近い宣伝効果。だから売名や商売、布教目的で出馬する人が増えるんです」 とりわけ今回の都知事選では、多くの候補者に当選以外の魂胆が色濃く窺えた。“泡沫候補”が一種のステータスになってはいまいか。令和最初の都知事選に、改めてそう考えさせられた。【都知事選の候補者一覧(届け出順。敬称、肩書き、所属政党は略)】山本太郎、小池百合子、七海ひろこ、宇都宮健児、桜井誠、込山洋、小野泰輔、竹本秀之、西本誠、関口安弘、押越清悦、服部修、立花孝志、斉藤健一郎、後藤輝樹、沢しおん、市川浩司、石井均、長澤育弘、牛尾和恵、平塚正幸、内藤久遠※週刊ポスト2020年7月10・17日号
2020.07.03 07:00
週刊ポスト
後藤輝樹氏は政見放送が話題になったことも
スーパークレイジー君・西本誠氏がN国・立花孝志氏の激励に涙
 7月5日投開票の東京都知事選は、小池百合子氏の“圧勝再選ムード”でつまらない──そう決めつけていないだろうか。実は、新聞やテレビが「主要5候補」としか報じない裏では、史上最多となる22人が名乗りをあげている。その“あまりに個性的な選挙活動”に、ノンフィクションライターの柳川悠二氏が密着した。(文中敬称略) 令和2年の都知事選には、過去最多となる22人が立候補している。現職の小池に、野党3党の支援を受ける元日弁連会長・宇都宮健児(73)、れいわ新撰組代表の山本太郎(45)、元熊本県副知事の小野泰輔(46)にこの立花を加えた5人が大手メディアが「主要候補」とする候補者だ。 その他、国政選挙や大都市の首長選挙の無名候補者は大手メディアから「泡沫候補」と扱われ、活動が紹介されることは限定的だ。 2016年の都知事選において、NHKの政見放送で“放送禁止ワード”を連呼し、一部に鮮烈な印象を残した後藤輝樹(37)は今回も出馬した。個人演説会の参加者は9人(うち5人が取材目的)。 麦わら帽子姿の後藤が会場に現れると、エキセントリックな印象はなく、今年に入って一日で体得したという“レイキ(霊気)ヒーリング”を希望者に施していく。前回の政見放送の意図を尋ねた。「発言を注目してもらいたいから。(家族が観たらどう思うか?)気にしたらやってられませんよ。僕の職業は後藤輝樹。108の職種があります」 つまりは煩悩のまま生きているということか。 選挙カーに改造したベンツ・Sクラスから「アンパンマンマーチ」を大爆音で流していたのが、政治団体「スーパークレイジー君」代表の西本誠(33)だ。 金髪を「七三」にわけた彼は、白の特攻服に身を包んで入れ墨を隠していた。逮捕歴があることに加え、8人兄弟はみな腹違いだと西本は打ち明けた。 宮崎出身だという彼の選挙ポスターには、「どげんかせんといかん」と、一世を風靡した先人のキャッチフレーズが。そして、「(投票に無関心の)600万人の代表が僕です」と訴えかけていた。 同じ日に池袋駅東口で演説していた立花孝志(52、NHKから国民を守る党党首)が西本の言葉に共感して演説に加わり、思わぬ激励に西本が涙する場面も生まれた。【都知事選の候補者一覧(届け出順。敬称、肩書き、所属政党は略)】山本太郎、小池百合子、七海ひろこ、宇都宮健児、桜井誠、込山洋、小野泰輔、竹本秀之、西本誠、関口安弘、押越清悦、服部修、立花孝志、斉藤健一郎、後藤輝樹、沢しおん、市川浩司、石井均、長澤育弘、牛尾和恵、平塚正幸、内藤久遠※週刊ポスト2020年7月10・17日号
2020.07.02 07:00
週刊ポスト
YouTuberの平塚正幸氏も都知事選に参戦
都知事選候補たち コロナに対する「ただの風邪」等主張の真意
 7月5日投開票の東京都知事選は、小池百合子氏の“圧勝再選ムード”でつまらない──そう決めつけていないだろうか。実は、新聞やテレビが「主要5候補」としか報じない裏では、史上最多となる22人が名乗りをあげている。その“あまりに個性的な選挙活動”に、ノンフィクションライターの柳川悠二氏が密着した。(文中敬称略) 令和2年の都知事選には、過去最多となる22人が立候補している。現職の小池に、野党3党の支援を受ける元日弁連会長・宇都宮健児(73)、れいわ新撰組代表の山本太郎(45)、元熊本県副知事の小野泰輔(46)に、ホリエモン新党公認でNHKから国民を守る党党首の立花孝志(52)を加えた5人が大手メディアが「主要候補」とする候補者だ。 候補者の中でも、とりわけシュールな選挙戦を展開するのが、自身が立ち上げた国民主権党党首にしてユーチューバーの平塚正幸(38)だ。 選挙戦最初の土曜日、人出が増えた新宿南口に平塚の選挙カーは現れた。事前に録音した「新型コロナウイルスはただの風邪です」という主張を、到着からおよそ1時間弱、延々と流し続けた。 平塚の陣営が誰もマスクをせず、「ただの風邪」と言い切っていることに、「そんなわけないだろう」と反発する聴衆もいた。そして、わざわざ車の前に来て両手を広げ、首を横に振る外国人の姿も。 カオスに陥った新宿駅南口を、当の本人は2階テラスから見下ろし、撮影した動画をさっそくツイッターにアップロードしていた。いつまで経っても演説が始まらないため、じれた私は車内に戻った平塚を直撃した。「(新型コロナは)季節性のインフルエンザと比べても感染者数は少ない。嘘を流すメディアこそ病原体です。新型コロナウイルスで死んだ人は知り合いにいないし、亡くなった方の平均は75歳ですよね。申し訳ないけど、もともと死に近かった人しか亡くなっていない」 平塚の最後の言葉に、背筋がゾッとした。「この様子をYouTubeで流していいですか?」と逆質問をしてきた。選挙活動につながるなら何でもありである。 4年前の都知事選で立花孝志を上回る11万票以上を獲得した日本第一党党首の桜井誠(48)だが、国政政党の推薦等はなく、“主要候補”とは扱われない。 コロナ問題で中国からの入国規制など水際対策の遅れの責任を巡って、「小池百合子はまず都民に謝罪すべき。安倍晋三にも同じことが言いたい」と主張する。「武漢肺炎対策」として街頭演説を一切中止。ウェブ上の演説で「公平に取り上げない既存メディアに期待はしない」などの主張を続ける。【都知事選の候補者一覧(届け出順。敬称、肩書き、所属政党は略)】山本太郎、小池百合子、七海ひろこ、宇都宮健児、桜井誠、込山洋、小野泰輔、竹本秀之、西本誠、関口安弘、押越清悦、服部修、立花孝志、斉藤健一郎、後藤輝樹、沢しおん、市川浩司、石井均、長澤育弘、牛尾和恵、平塚正幸、内藤久遠※週刊ポスト2020年7月10・17日号
2020.07.01 07:00
週刊ポスト

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眞子さまの箱根旅行のお姿。耳には目立つイヤリングも(2018年)
小室圭さんの妻・眞子さん 華やかだった4年前の「箱根・女子旅ファッション」
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逮捕された「RYO&YUU」
公然わいせつ逮捕「RYO&YUU」、性的動画アップは「親公認」だった 22歳の女は愛知・香嵐渓で全裸に
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結婚し、日本メディアが情報をキャッチしづらいNYで、デイリーメールが追跡取材(写真/JMPA)
小室圭さん・眞子さん夫婦が「離婚で終わったとしても…」英デイリー・メールが報じた「茨の道」
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高橋真麻
高橋真麻「おでんの卵8個食べても太らない」女性が憧れる美スタイルの理由
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