大阪球場で行われた引退試合で長嶋茂雄と対戦する杉浦忠(時事通信フォト)
長嶋は、同級生との最後の対決をこう回想している。
〈ヘルメットが飛ぶほどオーバーな三振をしてやろうと思っていたが、一球目、外角低めに驚くほどいい球がきた。これは自分の力をぶつけないと杉浦に失礼になる。二球目のストレートを思い切り中前へ弾き返した。一塁から駆け寄り、冷たい右手をしっかり握り「いいボールだったよ」とねぎらった。互いの力いっぱいの結果に杉浦は「どんなはなむけよりうれしかった」と喜んだ〉(平成19年7月14日・日本経済新聞)
平成のプロ野球界のヒーローであるイチローも、相手投手の引退試合で快打を放っている。平成7年3月26日のオープン戦で、オリックスの1番として打席に立ち、中日・小松辰雄の137キロの真っ直ぐを振り抜き、右中間フェンス直撃の二塁打を放った。幼い頃から中日ファンだったイチローは「本塁打を打つつもりだった。今、感激しています」(平成7年3月27日・中日新聞)とコメント。小松はこう述べている。
〈オレの一番いい時を見て育ったんだろ。イチローを三振か詰まらせたら色気も出ただろうけど、見事に打たれたらスッキリしたよ〉(平成7年3月27日・日刊スポーツ)
後悔のないマウンドだったようだ。イチローは2年後、郭源治のサヨナラ登板(平成9年3月19日・オープン戦)でも打席に立ち、この時はセンターフライに終わっている。郭は三振を〈狙っていった〉(平成9年3月19日・朝日新聞)というから、真剣勝負だったようだ。
長嶋茂雄監督との素振りを繰り返して成長を遂げた松井秀喜は、中日の抑えとして98セーブを上げた宣銅烈の引退試合(2000年3月9日・ナゴヤドーム)で打席に立った。オープン戦の試合前にセレモニーが行われ、松井は2球目の135キロストレートを捉えて打球は一塁方向へ。ファーストが後ろに逸らし、最後の勝負が終わった。
引退試合は昭和の頃は主にオープン戦に開催されたが、平成に入ってからは公式戦の終盤に行われるケースが増えた。これが“三振”への違和感を増しているのかもしれない。
ただ、いつの時代の引退試合も、三振もあれば、ヒットもある。エラーもある。“こうでなければならない”なんてことだけがないのかもしれない。
■取材・文/岡野誠:ライター、松木安太郎研究家。本人や関係者への取材、膨大な一次資料、視聴率などを用いて丹念な考察をした著書『田原俊彦論 芸能界アイドル戦記1979-2018』(青弓社)が話題に。巻末資料では田原の1982年、1988年の全出演番組(計534本)の視聴率やテレビ欄の文言、番組内容などを掲載。今後は「プロ野球の引退試合研究」も進めたいと考えている。