富野由悠季・アニメーション監督(時事通信フォト)
なんとなく、返してもらったCDを葉月くんのコンポでかけると岸田くんはイントロダクションに即反応した。『映画 伝説巨人イデオン 発動篇 劇場版オリジナル・サウンドトラック』という劇場アニメの音楽アルバムである。すぎやまこういち先生の手掛けた名盤だと思う。葉月くんは「小津(安二郎)、黒澤(明)、富野(由悠季)」と勝手な日本三大監督を脳内で決めて、このアニメを生み出した富野由悠季監督を崇拝していた。それにしてもこのコンポ、ソニーのキューブリックだが20年以上前の製品なのに音飛びもなくたいしたものだ。修理に出したのかもしれないが、それでも岸田くんの先の言葉ではないが、日本製は優秀だ。いや、優秀だった。
「カンタータ・オルビス」
筆者が最後のトラックまで進めると、葉月くんがこっちを見ないままクイズ回答者のように曲名を即答した。神と人間の再生を奏で、歌い上げる、本当に名曲だと思う。運命の女神よと合唱する『カルミナ・ブラーナ』じゃないかという野暮はともかく、これは作詞も富野監督である。葉月くんは常々この曲に「神」としか言わなかった。筆者がラックスマンのアンプとタンノイのスピーカー、トーレンスのターンテーブルというシステムを組んだときもわざわざ家に来てこれをかけろと言った。筆者はその時CDではなくレコードでかけた。1990年代にあえてレコードだったが、葉月くんは「わかってるなー」と満足そうだった。筆者も彼が喜ぶだろうとかけた、のではなくそもそも葉月くんがCDを返してくれないからレコードだったのだ。こういう思い出も返してもらった。
「なんだか落ち着くな、3人いるみたいだ」
岸田くんの言う通り、とても落ち着いてしまうし、こうして軽口すら叩いてしまう。ここで人が死んだはずなのに。好きな人が死んだ場所というのは怖くないものだ。
好きなものに囲まれた幸せな「孤独死」
葉月くんのような死を「孤独死」というのだそうだ。筆者は常々おかしいと思う。好きなものに囲まれて、好きな生き方をして、誰にも迷惑をかけずに生きてきたひとりの人間の死を、誰が「孤独死」と決められるというのか。葉月くんのレーザーディスクのコレクションは未開封のものが多い。コレクターは本当に大事なコレクションは開封して観る用とコレクション用の未開封とで買うものだ。当時観たから手元に置きたいだけ、というのもある。これもおかしな孤独死男性のネガティブな情報とされるのだろうか。
好きなものに囲まれて死ぬなんて最高の幸せだ。結婚もしてないなんてとか、子どももいない人生なんてとか、普通の父親となって幸せを云々なんて葉月くんのような古参オタクには余計なお世話である。葉月くんが長生きできなかったことは残念だが、この20世紀オタクの秘密基地のような城を枕に「討ち死に」した彼の死は羨ましく思う。ましてや彼はそれを徹底できた。SNSもやらず、ソシャゲもやらず、煩わしいインターネット文化もガン無視して20世紀のオタクのまま死んだ。
この件はコロナ禍の本格化する以前、2020年2月の話である。親御さんからはぜひ書いて欲しいと言われていたが、コロナ禍の取材や社会的な問題に取り組む中で延び延びとなってしまった。個人的に消化するのが難しいという部分もあったが、このコロナ禍、孤独死問題に関する一部記事に対しての違和感から再び筆をとった。
緊急事態宣言が発令された4月以降、自粛の中で孤独死について多くの記事が配信された。一般的な幸福論からすれば不幸な死なのかもしれない。しかし幸福とは相対的なものではなく絶対的なものだ。葉月くんの人生は幸せだった。好きなものだけに囲まれて死んだ。健康に気をつけても心疾患は突然やってくる。もちろん事故など突然の死の可能性はきりがないが、いずれにせよ絶対的な幸福の中で死ぬなら本望だと思う。誰に孤独だ無縁だと決めつけられる謂れもない。コロナ禍は2021年も長引くだろう。独身の一人暮らしにとってさらに厳しい時代となったことは確かだ。友人や恋人がいるなら幸いだが、そうでない独身者も多いだろう。だからこそ絶対的な幸福としての大好き、が必要だ。葉月くんにはそんな大好きがいっぱいあった。
死ぬ瞬間までオタクの城で大好きなアニメを観てたなんて最高じゃないか、なあ葉月。
【プロフィール】
日野百草(ひの・ひゃくそう)/本名:上崎洋一。1972年千葉県野田市生まれ。日本ペンクラブ会員。出版社勤務を経てフリーランス。2018年、評論「『砲車』は戦争を賛美したか 長谷川素逝と戦争俳句」で日本詩歌句随筆評論協会賞奨励賞を受賞。寄草『誰も書けなかったパチンコ20兆円の闇』(宝島社)、著書『ルポ 京アニを燃やした男』(第三書館)他。