〈ホームレスや女郎たちが〉応援に
きよ子さんが経営するアパートは、大阪・釜ケ崎にあった。釜ケ崎には遊郭があり、ならず者や女郎、ホームレスが闊歩する街。いつしか、この人々がきよ子さんの友人になっていた。
選挙母体のないはずのきよ子さんの選挙には、こうした釜ケ崎の住人が大挙して応援したのだった。「正義の女性」と書かれたのぼりを持って選挙区内を練り歩くと、時間を持て余したホームレスや女郎たちが後ろからついてきて、「がんばれ!」と掛け声をかけた。
《演説でしゃべり疲れると、(ホームレスや女郎たちが)なけなしの金で買ってきたお茶や飴をくれる。他には絶対にない、不思議な光景だったと思う》──
公約は、「食料の確保と1人3畳の住まい」。多くの人が焼け出されて住まいがなく、食べるものにも困っていた。きよ子さんは、それが見過ごせなかったのだという。きよ子さんは、選挙演説でこう語っている。
《私は、こないして皆さんに生意気なことを申し上げるようだけど、だれにも頼らず家族のために、自分の手で稼いできました。自分で稼いだお金で選挙に出るんです。だから私こそ、その資格があるんです》(1994年8月28日、毎日新聞)
しかし、選挙の妨害や嫌がらせも多かった。初の女性立候補者の1人であるうえ、若くて独身。にもかかわらず、演説をすれば人が集まる。有り体に言えば、目をつけられたのである。ほかの候補の運動員らしき人物から殴られたこともあった。当時のある新聞には、「中国人の愛人じゃないか?」という根も葉もない妨害記事を掲載されたこともあるという。
しかして結果は、3万2767票を獲得し、7位で当選。誕生日を迎えたばかりのきよ子さんは27才、全国最年少での当選だった。
こうして、晴れて衆院議員になったきよ子さんが力を入れたのは「生活保護法」と「売春防止法」だった。食糧難解消の要請をするために、同じ女性議員と共に、GHQの最高司令官マッカーサーに直談判に行ったこともある。
《(マッカーサーは)背の高い男前でな。でも全然威張りがない。話をよう聞いてくれた》(前出の自伝・以下同)