人権という言葉を、人を否定するために使うな
低身長症はもちろん、背が低いという事実そのものは努力してもどうにもならない。近年は低身長症に対する医療も発達しているため、世界的なサッカー選手、リオネル・メッシ選手のように幼少期の対処で悪化を防ぐことも可能になった。そうでない時代でも名優、白木みのるのように低身長を武器に(それもまたプロフェッショナルとして肯定される)銀幕のスターになった人もいる。筆者のFacebook友達、世界で最も身長が低い女性である女優、ジョティ・アムゲもまたハンディキャップを武器に活躍している。19世紀を代表する画家トゥールーズ・ロートレックのように低身長だと親にまで差別され、その悔しさと美しさへの渇望から数々の名画を生み出した人もいる。そこまで大それた天才でなくても、筆者が書いた方々のようなバイカーはもちろん、健常者と同じように、いやそれ以上に活躍する社会人として生きる人もあるだろう。人としてチャレンジの権利もまた阻害されない。これもまた「人権」と呼ぶ。
感情にまかせて面白おかしく、特定のハンディキャップや身体的なコンプレックスをあげつらうどころか「人権がない」と公言する人がいる。その人の身体的な運命をもって人としての存在を否定する。こうした批難に対しての「大げさな」「偉そうに」という冷笑もまた人を、人である自分すら軽視してしまっていることに気づかない。上下や貴賤の話ではなく、「個人の努力でいかようにもし難いものに対して人権のあるなしという生存の可否を持ち出し、あげくに公言してはいけない」という当たり前の話なのに。人権という言葉をゲームスラングではなく人そのものを否定するために使うことがよくない、ということを皆わかっているからこそ多くの日本人が怒っている。スポンサーも明確な態度をとっている。低身長の男は人権ない、Aカップの女性も人権ない、社会に公言して理解されるわけがない。それがネットで広まることもeスポーツのプロ選手で配信者ならわかろうはずなのに。
思うのは自由だ。この国では思想及び良心の自由、精神的自由権は頭の中で思うだけなら何人にも侵されない。しかし発言は別だ。お客様あっての企業案件ならなおさらだ。シンプルにプロとして考えれば、eスポーツのファンにも低身長はいるしAカップもいるだろう。消費者にも当たり前だがいるだろう。誰からお金をいただいているのか、誰が協賛してくれているのか、何をしてご飯を食べているのか、シンプルに職業人として当たり前の感覚であり、これを含めて仕事と、プロと呼ぶ。また別のゲーマーらの話だが、「ガイジ」(知的障害者を揶揄するネットスラング)だの「池沼」(知的障害者を揶揄するネットスラング)なんて企業や組織を代表するメンバーとしてカジュアルに使うような言葉じゃないだろう。これは「一般人ならいいのか」という倫理と別の話であり、ましてや言葉狩りとも違う。
彼女なりの理由、発端はあるのかもしれない。だからといって低身長男性の人権どころかAカップ女性の人権や障害者を否定する必要はまったくない。彼らにとってeスポーツを含め配信などのネット活動は仕事のはずなのに、結果的に関係者、ファン、スポンサーとその客の低身長やAカップのみならず、そうした暴言を許さないという当たり前を持つ大半の人たちまでも敵にまわしてしまった。ゲーマー界隈の隠語であっても人を対象とした時点で命題は戻る。好みを言ったまで、だとしても、好みに人権の否定が合わさったものを「レイシズム」と呼ぶ。
思考は自由だ。しかし思考は言葉に、言葉は運命となる。社会はゲームじゃないし人間はキャラじゃない。そして人権は、お前らのおもちゃじゃない。
【プロフィール】
日野百草(ひの・ひゃくそう)ジャーナリスト、著述家、俳人。日本ペンクラブ会員。出版社勤務を経てフリーランス。社会問題、生命倫理のルポルタージュを手掛ける。