どさんこ馬(戦前の択捉島紗那・倉沢牧場)
ソ連の不法占拠が始まった
そこから長い苦難の道を経て、1945年8月15日に日本は終戦を迎えた。その6日前に日ソ中立条約を破って参戦していたソ連は終戦直後に千島列島を攻撃し、北方領土にも武装したソ連兵が姿を現すようになった。択捉島の鈴木さんの家にもソ連兵がやって来た。
「当時は『若い女性はソ連兵に連れていかれる』との噂が広まり、髪を短くしたり、顔に炭を塗って男性のふりをする島の女性がたくさんいました。実際に黒光りした銃を手にしたソビエト兵が土足のまま私の家に上がり込んできた時は、幼いながらに身体が震えるほどの恐怖を感じました」(鈴木さん)
色丹島斜古丹での海苔すき風景(戦前)
歴史は時として、不可思議な目撃者を生む。大日本帝国海軍が真珠湾に向けて出撃する様子を見ていた松尾さんは、終戦後に上陸するソ連軍の姿もその目で見た。
「終戦後、機関銃を持ったソ連兵が軍用トラックで年萌に入ってきました。9月になり、ソ連の上陸用舟艇が湾の砂浜に侵入して銃を持った兵隊が陸に上がるのを、私は家の窓から呆然と見ていました。他に目撃者はいなかったけど、岸壁にあった防空壕に備蓄しておいた食糧がすべてなくなっていたので、兵隊の上陸は幻ではなかったはずです。以降、戦時中のように上陸用舟艇で上陸したソ連兵はいなかった。だから私は、太平洋戦争の“はじまり”と“終わり”をともにこの目で目撃したのかもしれません」(松尾さん)
北方領土を不法占拠したソ連兵は、島民の家宅を捜索して日本兵を匿っていないかを確認し、一部は金目の物を略奪した。島民は夜陰に乗じて船で島を脱出したが、逃げられず北方領土に残った島民は強制労働を課せられ、食料は配給制になった。
一方で占領下の軍人と住民の交流もあった。当時、歯舞群島の多楽島にいた河田弘登志さん(87)は家の船がソ連兵に徴用され脱出できず、敵兵とともに暮らす日々を強いられた。
多楽島にあった小学校の大運動会(1937年撮影)
「島では軍のナンバー2の地位にあるアレキセイというソ連兵が子供たちとよく遊んでくれました。しばらくして、先に島を脱出していたおじが根室から船で私を迎えに来ると、アレキセイは『ちょっと待ってろ』と馬に乗って立ち去り、子供用の机を抱えて戻って来て『これを使え』と言いました。子供だったのでどんな経緯があったかわかりませんが、その出来事はよく覚えています」(河田さん)