引き揚げや避難は「究極の生活」だった
終戦から2年ほど経った1947年7月、ソ連が突然、北方領土からの強制退去を命じた。島民は時間の猶予を与えられず、ソ連の貨物船に押し込められて樺太に入り、当地での収容所生活を経て函館に向かった。元島民は「島を追われてからが最も過酷だった」と口を揃える。
「着の身着のままで、ソ連兵に銃を突き付けられながら集合場所まで歩き、荷物と一緒にウインチで吊り上げられて船底に入れられました。樺太の真岡にあった収容所は暖房もなく寒さに震えながら過ごし、トイレでは深い便槽に何人もの子供が落ちて亡くなったと聞かされました。人間的な生活をする環境ではありませんでした」(鈴木さん)
戦争後の過酷な日々を生き抜いた元島民は今、ウクライナの人々に思いを寄せる。
「ウクライナ侵攻は北方領土と同じで、ロシアによる不法占拠であることは間違いない。すべてをなげうっても命だけは守りたい、という思いはウクライナの人々も北方領土の島民もまったく同じでしょう。この気持ちは引き揚げや避難を味わった者でないとわかりません。私たちが体験したのは本当に究極の生活でした」(松尾さん)
第二次世界大戦終戦から77年が経っても、人間の愚かな行為はまったく変わらないのではないか──テレビから伝わる現実を前に、北方領土の元島民は「どうか私たちと同じ悲しみを繰り返さないでほしい」と祈りを捧げている。【後編に続く】
◆取材・文/池田道大(フリーライター)、写真提供/公益社団法人千島歯舞諸島居住者連盟