「そのほうが、作家としては事実に引きずられなくていいんですよ(笑い)。戦後、米兵と日本人女性の間に生まれた孤児たちを引き取って、『エリザベス・サンダース・ホーム』をつくった澤田美喜さんは、久弥の長女です。美喜さんの本や、他の人が久弥について書いたものも参考にして、『久兵衛』の人物像をつくっていきました。実際の久弥も威張ったりすることのまったくない人で、空襲のときは屋敷の門を開いて逃げてくる人を迎え入れたし、街の人は、祭りがあると必ず岩崎家に寄付をもらいに行っていたそうです」
自己顕示欲がなく、影に徹して自分の役割を果たそうとした久兵衛を、さらに影の存在として支え、観察するのが、日記の書き手で、この小説の主人公である伊地知海弥(いじちかいや)である。カズオ・イシグロの名作『日の名残り』のように、誇り高い執事の目から、花浦家の終わりの日々が静かに語られる。
伊地知の仕事は、毎朝、洋館の塔に登ってステンドグラスの窓を開け、新鮮な空気を取り入れることから始まる。これも、かつて岩崎邸だった公園を散歩していて思い浮かんだイメージだそう。
「旧岩崎邸の塔に、小説に書いたとおり、不忍池に面した天窓がありまして。『あの窓を開けたら、いい空気が入るだろうな』と思ったんですよね。伊地知は実在した人物ではありませんが、書いているうちに、『この人、本当にいたんじゃないか』と思うようになっていきました。そういう役割の人は、たぶん現実にもいたんじゃないでしょうかね」
戦中・戦後の花浦家を取り巻く状況に、史実とフィクションがたくみに組み合わされている。第三章のタイトルにもなっている「キャノン機関」は、松本清張も『日本の黒い霧』で取り上げた、進駐軍の秘密諜報組織だ。接収された岩崎邸には、実際にキャノン機関の本部が置かれていた。夜な夜な日本の警察官僚や女優らを招いての酒池肉林の饗宴が開かれ、もともとの所有者である岩崎家の人々は、その間、和館の一部で暮らすことを強いられた。
司令官のキャノンが、敷地内で素っ裸のまま過ごしたり、庭に来る小鳥をピストルで撃ったりしたことや、屋敷のみごとな金唐革紙の壁を白いペンキで塗ってしまったという小説に出てくるエピソードも、実際にあったことだ。