今の日本には、あの頃と同じ滅びの感覚があるのでは
綾乃という少女も伊地知と同じく江上さんのフィクションだが、澤田美喜さんの著書に、自分の父親も一人、アメリカ人の父を持つ子供の面倒を見ていた、と書かれていたことが発想のもとになっている。綾乃の遊び友達で、戦争中、久兵衛に命を救われる少年、太郎の父親が、戦後になって湯島で開く飲み屋にもモデルがあるという。
西欧の友人も多く、青い目を持つ少女を養女として引き取って育てている久兵衛には、戦争中、特高警察の監視がついた。非協力への代償として、イギリスの大学を出た三男は一兵卒として召集される。にもかかわらず敗戦後は一転、戦争協力者として財閥解体の憂き目に遭い、父から受け継いだ全てを失う。
亡き妻の思い出がつまった大切な屋敷が進駐軍に蹂躙されても、かつての使用人たちが生きるために彼らの下で働くのを見ても、貧しい食卓にも、久兵衛はいっさい愚痴をこぼさない。執事として節度ある行動を心がけてきた伊地知だが、運命の非情さに憤り、思わず「死にたい」と口走る。
「ある意味、久兵衛の心の中の深い部分を、伊地知が代弁しているところもありますね。千葉の農場に移り住んだ久兵衛は、昭和30年、90歳まで生きて、始まりから終わりまでを見届けます。
久兵衛の人生は、日本の運命と重なるようにぼくには思えるんです。われわれの中にも、いま、滅びの感覚みたいなものがありますよね。戦後の日本は、どんどん成長していって、いまはゆっくりと衰え、滅びに向かっているような気がします。でも、その先に新しい始まりがあるかもしれない。久兵衛は、新しい世の中が始まるのを見ることができました。終わりが来るからもうどうでもいい、ではなく、限りあるからこそその時間を誠実に生きようとしたんじゃないでしょうか。そんな風に重ねながら、この小説を読んでもらえたらと思います」
【プロフィール】
江上剛(えがみ・ごう)/1954年兵庫県生まれ。早稲田大学卒業後、旧第一勧業銀行(現みずほ銀行)に入行。1997年、旧第一勧業銀行総会屋利益供与事件では広報部次長として混乱の収拾に尽力。2002年、築地支店長を務める傍ら『非情銀行』で小説家デビュー。2003年3月にみずほ銀行を退行。近著に『Disruptor 金融の破壊者』『再建の神様』『二人のカリスマ』『会社人生、五十路の壁 サラリーマンの分岐点』『56歳でフルマラソン、62歳で100キロマラソン』など多数。
取材・構成/佐久間文子
※女性セブン2022年3月31日号