明らかに時代遅れで不必要なのに、なぜか何十年も続いている──そんな惰性で繰り返される「慣例」に疑問を抱くのは、女性セブンの名物ライター“オバ記者”こと野原広子。オバ記者が「慣例」に異論を投げかける。
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3月末、私は65才になった。高齢者の仲間入りだと承知していたけど、「敬老」とまで言われると、「へ? 誰のことですか」となる。
私が住んでいる東京・千代田区から「敬老入浴券を申し込みますか?」という通知が届いたのよ。月に約4枚の割合で、年間最大44回、銭湯に無料で入れる券を発行してくれるというありがたい申し出。さすがは人口約6万7000人で23区内最少人口の区。これだから離れられないのよと思いつつ、心は晴れない。「敬老」って二文字がどうしてもざらつくのよ。
だっておかしくない?
私は毎日、目が覚めたら「オッケーGoogle、音楽かけて」とスマートスピーカーに声をかけ、スマホでウクライナ情勢をはじめとしたニュースをチェックする。YouTubeで、ひろゆきやホリエモン、話題の暴露系YouTuber・東谷義和のガーシーchも見る。日銭を稼ぐ暮らしで、ほんの少しだけど納税もしている。20才のときと変わらぬ生活だ。そんな私に「敬老」だと?
がしかし、申し込み用紙を破り捨てられるかというと、それはまた別。無料のものは街頭で配っているポケットティッシュだって素通りできない私は、気がつくと往復はがきの「申し込みます」に○をつけてポストに入れていた。
で、考えたわけよ。なんで私は「敬老」に傷ついたのかと。それで思い至ったのがイメージの中の「老人」なの。笑っちゃうけど、それは青島幸男が演じた「意地悪ばあさん」なんだよね。頭に白髪のお団子をのせて、地味な着物を着てガハハと笑っている。そんな年寄りは昭和40年代に消えていたはずなのに、子供の頃に頭の中に刷り込まれたものってそう簡単になくならないのね。頭ではなくて体の方から自分の「老」を見ると、これはなかなかどうして、見過ごせないことがいくらでも出てくるんだけど、直視したところで面白くないから見て見ぬふりをする。
と、ここまでは私事だけど、見回せば、現実から目をそらして当たり前のように、惰性で繰り返されていることって結構あるのね。
4年前から衆議院議員会館でアルバイトをしているんだけど、国会議員がしていること、役人がしていることで、「なんで?」と思うことがよくあるんだわ。
アルバイトの私の仕事は、電話番と来客へのお茶出し。ボスである田所嘉徳代議士から広報物の校正を頼まれることもある。ものすごく忙しい日もあるし、そうでない日もある。その忙しい日に限って、事務所の入り口にスーツ姿の20代、30代のお役人が、茶封筒片手に「○○省です」「××省です」と現れるのよ。