吉田拓郎の思い出を振り返る
当時、拓郎はまだ知る人ぞ知る存在だった。
「実際に拓郎さんのコンサートを観て、『俺も拓郎さんみたいに何かを見つけて頑張ろう』と思い、大学を辞めて好きな道で生きようと決めました。『今日までそして明日から』が背中を押してくれたんです。
その後、自分でコンサートを主催し、今でいうプロモーターになりましたが、客は入ったものの大赤字。それでも“フォークは俺たち若者の歌になる”と確信しました。
『新譜ジャーナル』というフォーク雑誌に自分の考えを書いて送ると、編集長から連絡がきて、投稿した原稿が初めて活字になったのが1971年の10月です。当時、音楽評論の分野では、フォークは商売になっていなかった。それで最初から『フォーク評論家』という名刺を作って旗を揚げました。
すると翌年、『結婚しようよ』が大ヒット。フォークについて書ける人がいないということで、僕に依頼が殺到したんです」(富澤氏)
『今日までそして明日から』がなければ、音楽評論家・富澤一誠は生まれていなかったのである。
※週刊ポスト2022年7月22日号