1998年夏の甲子園での横浜とPL学園「延長17回の死闘」は今も語り継がれる名勝負だ(右は松坂大輔。時事通信フォト)
PLの「ネットワーク」は凄い
家族を神奈川に残し、平田氏は今年4月に赴任する。同時に野球部の顧問となったが、この夏が終わるまで指導にはタッチせず、新体制の準備に費やしていた。関西圏の中学硬式野球などの現場を回った。いわゆる来年以降に向けたスカウティングだ。関東の中学生にとって憧れの的であった横浜の時とは違い、なかなか声をかけても入学には導けないだろう。
「兵庫県に伝手はありません。ですから、4月からの3ヶ月間は土日をすべて使って中学野球の現場を回りました。すると、村野工業という古豪の復活を期待する声を感じられました。村野工業が強かった時代の選手がお父さんになったり、シニアやボーイズで監督、コーチをしているOBの方も多いんです」
既に30人ほどの中学3年生が来年の入学・入部を希望しているという。
「ここで頑張りたいとガッツを持って入ってきてくれる子を大事にしながら、鍛えていくのがいいかなと思います。横浜高校で渡辺(元智)監督のもとでコーチ、部長を務めていた頃、私はAチームよりも実力が劣るBチームやCチームの選手を指導することが多かった。たとえ、能力が高くなくても、指導者としての苛立ちや歯がゆさはないです。いや、想像していた以上に、村野工業のレベルは高い。成長したいと思って努力する子どもと接することが楽しい」
監督である平田氏のパートナーというべき部長の千葉智哉氏(33)は2016年に事実上の廃部となったPL学園の“最後のコーチ”だ。同校の教員だった千葉氏は、翌2017年から2年間、PL学園中学の軟式野球部監督を務め、2019年4月から村野工業の保健体育科の教員となった。
この春から部長となり、前監督と3年生の戦いを支えたあと、指導を再スタートした平田氏を支えている。
1998年夏の甲子園で、松坂大輔擁する横浜は、PL学園と延長17回に及ぶ死闘を繰り広げ、勝利した。聖地に数々の歴史を刻み、数々の野球人(野球指導者)を輩出してきた両校のOBが手を組み、甲子園を目指す──もちろん、そんな事例は全国でも村野工業だけだ。平田氏は言う。
「PL出身である彼(千葉氏)と付き合うようになって感じるのは、PLのネットワークであり、心のつながりですよね。後輩に対する面倒見の良さにも驚きます。彼からPLのOBの方々を紹介してもらうと、『千葉を頼みます』と、後輩のために年下の私に向かっても頭を下げてこられるんです。横浜とPLの野球は“守り勝つ野球”という根本的な部分は似ているように思います。兵庫は激戦区と言われますが、ロースコアで、ドカドカと打つような学校は少ないように思います。チャンスは十二分にあるし、こんなにやりがいのある仕事はない」
昨夏まで履正社の監督を務めた岡田龍生氏が東洋大姫路の監督に就任するなど、兵庫はより群雄割拠の時代を迎えている。「彩星工科」となる来春以降に向け、監督人生の再起をはかる男の挑戦が始まった。
【了。前編から読む】