PL学園一覧

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PL学園野球部は廃部、創価大学駅伝部は躍進…新宗教「学生スポーツ」の明暗
PL学園野球部は廃部、創価大学駅伝部は躍進…新宗教「学生スポーツ」の明暗
 信者数が減少傾向にある新宗教にとって、機関紙などと並んで“宣伝活動”を担うのが系列学校の「学生スポーツ」だ。そこにもまた各校の栄枯盛衰がある──。『永遠のPL学園』の著者でノンフィクションライターの柳川悠二氏がレポートする。(文中敬称略)【写真】PL学園野球部は2016年に事実上の廃部となった * * * 正月の風物詩である箱根駅伝で、創価大学の駅伝部が往路優勝を遂げたのは2021年1月2日のこと。池田大作名誉会長が93回目の誕生日を迎えたこの日、コロナ禍で在宅率が高かったこともあり、視聴率は30%を超えた。学会員に希望を与えて活気づけ、機関紙・聖教新聞も快挙を讃えた。 新宗教団体は、傘下の高校や大学におけるスポーツ活動がいわゆる広告塔の役割を担い、新規信者を獲得してきた歴史がある。その最大の成功例は大阪のPL教団だ。 2代教祖の御木徳近(みき・とくちか)は、社会人野球で活躍していた立正佼成会に対抗すべく野球を奨励し、1955年に創立したPL学園の硬式野球部強化を厳命。甲子園球場のアルプス席で「PL」の人文字を描いて宣伝した効果は絶大で、KK(桑田真澄、清原和博)コンビを擁した1980年代の黄金期、信者数は公称で235万人に達した。 春夏通算7度の全国制覇を誇り、高校野球の歴史においても絶大な人気を誇ったPLだが、2000年代に入って暴力事件が相次ぎ、信者の激減によってかつてのように寄付金などの浄財を野球部に投下できなくなり、2016年に事実上の廃部となった。学園の生徒数も減少の一途を辿り、今年の入試倍率(理文専修コース)は「0.02倍」に。学校自体が存続の危機に瀕している。新規より“繋ぎ止め” ほかに立正佼成会の佼成学園(東京)や、今春のセンバツに出場した金光教の金光大阪、創価学会の創価(東京)、関西創価(大阪)も強豪だが、PLなき今、新宗教系学校随一の野球名門校といえば奈良の天理だろう。 天理では野球部に加え、柔道部、ラグビー部が天理スポーツ三兄弟と呼ばれ、いずれも全国レベルの強豪である。 団体名が市町村名となっている天理市は天理教からの寄付金が市の財政を助けてきた歴史があり、一時は年40億円を超えた。ところが、平成に入ってからは信者の数に比例して減少傾向にあり、2020年度には3億円に。今年度はいよいよゼロになるのではないかと噂された。天理市の並河健市長はかつて筆者の取材に、こう語っている。「ゼロにはなりません。寄付金だけが市と天理教の協力体制ではない。スポーツに力を入れる天理高、天理大の存在によって市が発展してきていますし、市民の健康づくりや教育面でも、今後より協力関係を厚くしたい」 現代でスポーツ活動に新たな「信者獲得」の役割を担わせるのは、難しいのかもしれない。むしろ現役信者を激励し、彼らの健康促進を支える目的が窺える。つまり「信者の繋ぎ止め」にこそ、新宗教のスポーツ戦略は活用されているのだ。 そうしたなか、一般市民に最も近しいスポーツといえる「ランニング=駅伝」で創価大が快挙を達成したことは、「新宗教とスポーツ」の置かれた現況を象徴する出来事なのかもしれない。【プロフィール】柳川悠二(やながわ・ゆうじ)/ノンフィクションライター。1976年、宮崎県生まれ。大学在学中からスポーツ取材を開始。近著に『投げない怪物 佐々木朗希と高校野球の新時代』※週刊ポスト2022年5月20日号
2022.05.19 15:15
マネーポストWEB
PL学園で長くスカウトを務めた井元氏
85歳の伝説のスカウトが語る PL学園時代の終焉と大阪桐蔭時代の幕開け
 広島商が部員のコロナ感染でセンバツ甲子園を辞退し、大阪桐蔭が不戦勝でベスト8となった。これにより甲子園通算58勝となった大阪桐蔭の西谷浩一監督だが、同じく通算58勝の中村順司監督の率いたPL学園を追いかけるかたちで、当初はキャリアを重ねていった。PL学園で長く選手勧誘を担い、伝説のスカウトと呼ばれた井元俊秀(いのもと・としひで、85)氏は昨夏に現場を退いたが、印象に残る選手として、PL学園のスカウトとしては声をかけず、大阪桐蔭に進んだ西岡剛(元千葉ロッテほか)を挙げた。『永遠のPL学園』(小学館文庫)の著者・柳川悠二氏(ノンフィクションライター)がレポートする。【前後編の後編、前編を読む】 * * * 中学時代にPLへの入学を希望しながら、井元俊秀のお眼鏡に適わず、大阪桐蔭に入学したのは西岡剛だった。井元が振り返る。「ちょうど西岡の大阪桐蔭入学を境に、PLの時代から大阪桐蔭の時代になってゆく。郡山シニアとPLのつながりもなくなりました。西岡には申し訳ないことをしたと思っていますが、彼がプロに入ってからも、付き合いはありましたよ。球場でボクを見かけると、いろいろとイタズラしてくるような子なんです。PLに入れなかったことはよほど悔しかったろうけど、その悔しさがあったからプロ野球選手になれた。その思いが彼自身にも強いから、ボクを慕ってくれているのではないでしょうか」 PL学園では1998年春のセンバツをもって、甲子園通算58勝の中村順司が勇退。監督が交代すると、2000年代に入って不祥事が相次ぎ、対外試合禁止などの処分が幾度も下った。そうしたPLの暗黒期に、高校野球の盟主の座を大阪桐蔭が奪っていくのである。 西岡が大阪桐蔭の2年生だった2001年7月、夏の大阪大会の組み合わせ抽選会前日のこと。PL学園では暴力事件が発覚し、出場を辞退する。当時の監督である河野有道は辞任し、井元も翌年、65歳の定年を迎えて退職する。 10歳からPL教団の英才教育を受け、野球を愛したPL教団の2代教祖・御木徳近の命によって野球部の強化に携わってきた井元。その後の井元は大阪に暮らしながら、青森山田の野球部の顧問となり、近畿圏の選手を東北へ橋渡しする役目を担っていく。 青森山田は井元が在任した12年間で青森県内のいち強豪校から甲子園常連校となり、大阪の羽曳野ボーイズからスカウトした柳田将利(2005年高校生ドラフト1位で千葉ロッテ入団)は計3回、甲子園に出場した。 しかし、2011年12月、同校の野球部の1年生部員が死亡する事件が起き、野球部は変革期を迎える。前月に井元を青森山田に誘った理事長が死去したことを受け、井元は青森を離れた。PL学園の寮生活の「上限関係」への見解 PL時代には2年生部員が水死するという悲しい出来事もあった。PLには付き人制度があり、厳しい上下関係を強いられるのは周知だが、井元が在任していた時代にも、日常的に寮内で先輩から後輩への暴力はあったと数々のOBが証言している。 輝かしい甲子園の歴史の一方で、自分が導いたうら若い選手たちがこうした事件に巻き込まれてきた歴史もある。スカウトとして責任を痛感しているのではないか──。井元との付き合いは6年半になるが、この話題に触れたことは一度もなかった。井元は慎重に言葉を選びながら、そして自分を戒めるように語った。「当たり前のことだが、PL時代にそういうこと(暴力)をせえと上級生たちに言ったことはありません。むしろ、後輩が野球の指導をしっかり受けられるように、上級生が下級生の面倒をみてあげるために、上級生と下級生を同部屋にしたりしていた。悪い面ばかりが注目されますが、実際、上級生に救われた下級生というのもたくさんいるんです。 ところが、いつしか相撲の世界のような付き人制度、徒弟制度のようなものになってしまった。子供たちには、大人が入り込めない世界というのがある。寮生活まで大人が介入してしまえば、プライベートまで完全に大人に管理されることになる。子供たちの世界というものを大人は認めてやらないといけないと当時のわれわれは考えていた。今から思えば、それが間違いだったのでしょうか。非常に難しい世代です、高校生というのは」 青森山田から秋田の明桜(2020年4月よりノースアジア大明桜)に籍を移し、初めて甲子園に出場したのが2019年夏だった。当時の2年生エースが山口航輝であり、右肩の亜脱臼によって甲子園での登板はなかったが、翌年のドラフトで千葉ロッテから4位指名を受けて入団した。この日の取材では、その山口からプレゼントされたというロッテのキャップをかぶっていた。井元は自身が関わった球児でプロ入りしたのは総勢83人だと振り返るが、山口に続く“84人目”の候補もいる。「山口と同級生で、白鴎大に曽谷龍平というのがおる。左で150キロを超えるまでに成長しているらしい。プロのスカウトからも良い報告を受けている。私はプロに行くことが最高の野球人生とは思っていないし、中学生を勧誘する時も、『君ならプロになれる』などと言ったことは一度もない。プロになれなくとも、野球の引退後に社会で活躍してくれればそれが幸せな道ではないですか」純粋に野球を頑張る子を応援したい 今も井元は週末になると中学野球の現場に足を運ぶ。「お気に入りの選手には野球道具を買うてあげたり、グローブをプレゼントしたり。他意はありませんよ。純粋に、野球を頑張る子を応援したいという気持ちだけ。彼らは近所の野球好きのおじいちゃんぐらいに思っとるんじゃないかな(笑)」 ノースアジア大明桜のスカウトを昨年8月に辞した井元は、学校から感謝状をもらったという。60年以上の高校野球との関わりの中で、甲子園で通算99勝を挙げ、プロ野球選手83人を送り出してきた。しかし、これまでの野球人生で感謝状のようなものはもらったことがなかったという。 甲子園通算58勝を誇る名将・中村順司がPLの表の顔ならば、井元は裏の顔だった。常に日蔭に身を置き、絶大な人気を誇ったPLを下支えした。そんな井元にとっては、感謝状よりも教え子からプレゼントされたサイン入りキャップのほうが宝物だろう。(文中敬称略)了。【前編】から読む
2022.03.27 07:02
NEWSポストセブン
PL学園の黄金時代をスカウトとして支えた井元氏
甲子園通算99勝 KKコンビ獲得の伝説のスカウトが引退「もう潮時だ」
 部員から新型コロナ感染者が出たことにより、広島商がセンバツ甲子園の2回戦を辞退。大阪桐蔭が不戦勝で準々決勝へと駒を進めた。まさかの不戦勝で大阪桐蔭の西谷浩一監督は甲子園通算58勝となり、同じ大阪のPL学園をかつて率いた中村順司監督と並ぶ歴代2位の数字となった。PL学園の硬式野球部は2016年に休部しており、“大阪の覇者”は完全に入れ替わった格好だ。そうしたなか、中村監督が率いた黄金時代のPL学園の屋台骨を支えた「伝説のスカウト」が、昨夏にひっそりと現場を退いていた──『永遠のPL学園』(小学館文庫)の著者であるノンフィクションライター・柳川悠二氏がレポートする。【前後編の前編、後編を読む】 * * * 1962年に監督としてPL学園を初めての甲子園出場に導き、その後は野球部の顧問として全国の有望中学生に眼を光らせ、学園のある大阪府富田林に集めて常勝軍団を築き挙げた男がいる。高校野球の歴史上、随一の人気を誇ったPL学園硬式野球部(2016年に活動停止)を語る時、“伝説のスカウト”として必ず名の挙がる井元俊秀(いのもと・としひで、85)だ。 2002年にPLを追われた男は、青森山田で12年間、秋田のノースアジア大明桜でも8年間にわたってPL同様の役割を担い、近畿圏の中学生球児を東北へと送り出してきた。 60年以上に渡る高校野球との関わりの中で、これまで携わった3校で春夏の甲子園に出場した回数は計45回、通算の勝利数は99勝だ。この記録は甲子園通算68勝という歴代最多勝利記録を持つ智弁和歌山の前監督・高嶋仁の偉業と、個人的には同等に語り継がれてしかるべき業績と思っている。そして、プロに送り出した球児も総勢83人にのぼる。「本当はもう少しプロになった選手はおるんだけど、ボクがプロと認めていないのがおるから、その選手はカウントしていません」 深く刻まれた目元の皺をさらにギュッと寄せ、井元はニカッと笑った。およそ1年ぶりに会う井元は、千葉ロッテのキャップをかぶっていた。井元とやり取りするようになって6年以上経つが、特定の球団のキャップをかぶって姿を現したことはこれまで一度もなかった。 昨春に石垣島で行われていた千葉ロッテの春季キャンプに足を運んだ際、井元が明桜にスカウトし、同校からプロに進んだ山口航輝(2018年ドラフト4位)からプレゼントされたサイン入りのキャップだという。山口は現時点で、井元が最後に送り出した、“83人目”のプロ野球選手となる。 だが、今年7月に86歳になる井元が昨年8月、静かに高校野球界を去ったことを知る者は少ない。「コロナ禍でそうそう出歩けなくなってしまったし、出歩くことがしんどくなってしまった。幸いにして、車の運転はできるんだけど、足腰が弱ってしまってね。もうあちらこちらに飛び回ることもできないんです。持病もあるし、潮時かなと。未練なんてありません」KKコンビの才能をどう見極めたのか 昨年7月に話を聞いた時には現役続行の意向を明かしていた。その直後の急な心変わりは、昨夏に風間球打(2021年福岡ソフトバンク1位)を擁した明桜が甲子園に出場したことが関係しているかもしれない。風間は井元が勧誘した選手ではないものの、大エースを看板に明桜が甲子園出場を果たせたことで、「お役御免」を自覚したのかもしれない。 スカウトの仕事から離れたといっても、今も週末になると中学野球の現場に足を運ぶ井元がいる。「それは完全に趣味ですね。甲子園を見るよりも、中学野球のほうが面白いんですよ。ボクがよく足を運ぶチームに素晴らしいキャッチャーがおる。彼の成長を見守るのが楽しみでね。大阪桐蔭の西谷(浩一)君が声をかけとるらしいです(笑)。その子の進路にタッチしようとは思っていません。もちろん、相談されたら、アドバイスはするだろうけど、彼はボクが何者かなんて知らんでしょう」 PL時代において、スカウティングで苦労した思い出はいくらでもある。とりわけ、「逆転のPL」が代名詞となった1978年夏の選手権大会の優勝投手である西田真二(元広島)を口説き落とすために、和歌山にある西田の実家にはギネス級に日参した。「同級生の捕手・木戸克彦(元阪神)にも苦労しましたが、西田に関しては36回目の訪問でようやく決断してくれた。そうそうそう、3年時に甲子園には出場できませんでしたが、同じ和歌山出身の尾花高夫の時も大変でした。PLから社会人の新日本製鐵堺に進み、その後にヤクルトに入団した彼は(和歌山の)九度山出身だった。高野山に向かう途中の山の中に実家があり、1月の末頃に初めて訪ねた。すると私は道に迷ってしまって、草木を掴みながら山を上ってようやくたどり着いた。こんな山を毎日上り下りして学校に通っているんだから、相当、足腰は強いだろうと思った事を覚えております。後に、尾花をヤクルトにスカウトした片岡宏雄さん(2021年12月に逝去)もまったく同じことを話していましたね」 1983年夏から5季連続で甲子園に出場し、プロの世界で大投手、大打者となったKK(桑田真澄、清原和博)や、1987年に春夏連覇を達成した立浪和義や橋本清、片岡篤史、宮本慎也らも井元のお眼鏡に適った球児だった。KKに関してはもちろん、井元の中でも特別な選手だ。「(桑田は)キャッチボールからボールが違った。フォームが美しく、ボールに伸びがあった。回転も素晴らしかった。ピッチャーというポジションは、フォームに癖があってガクガクした動きをしていたり、手投げになったりしてしまう投手はなかなか2年半という高校生活の間では修正ができない。ですから、ボクが選手を見極めるときに大事にしていたのは、まずキャッチボールがしっかりできることだった。 清原に関しては、初めて見た時は引っ張り専門で、とにかく飛距離が印象に残った。私は学習院大学で野球をしていた頃、長嶋茂雄さんのバッティングを近くから見たことがある。ミートしてから20メートルぐらいの打球の初速と角度に希有なホームラン打者の才能が詰まっていた。清原のバッティングを見て大学時代の長嶋さんを思い出しました。全国制覇をするようなチームは、その3年前の段階で優勝できると確信できるものです。木戸と西田の時や立浪の時がそうでしたし、KKの時は野球をまったく知らない人間が監督でも優勝できると思っていました」大阪桐蔭の西谷監督から教えを乞われて 当時のPLは、全国の中学生が憧れる超名門であり、あらゆる手を使って息子をPLに入学させようという強引な保護者もいた。「ある時、OBを通じて宮崎の油津という場所に素晴らしい選手がいると情報が入ってきた。それでボクは、周囲に黙って視察に行ったんです。ところが練習を見ても、正直、PLで野球がやれるような実力ではなかった。どうも選手の母親が『PLから誘いが来ている』と周囲に吹聴していただけなんです」 1970年代後半から1980年代にかけてのPLの黄金期、井元が声をかけた球児は必ずPLの門を叩いた。高校野球に一時代を築いたPLの井元から声をかけられることは中学生にとって最大の誉れであり、甲子園への、そしてプロへの最短の道だった。それは1990年代に入ってからも続いた。大阪桐蔭の現監督である西谷浩一は、当時をこう振り返ったことがある。「どうやったらPLを倒せるか。そればかり考えていました。最初は、良い選手さえ獲れれば差は縮まると思っていました。ところが、誘ってもなかなか入学してもらえない。PLに『A(クラス)』の選手が行くとしたら、うちにはやや劣る『B』の選手しか来ない。そんな状況でPLと同じことをやっていたら、一向に差は埋まりません……」 若き日の西谷から、井元は教えを乞われたことがあるという。「『土下座でも何でもしますから、先生、どうしたら強くなれますか教えてください』『どうやったら欲しい選手を獲れますか』と言ってきましたね。ボクは一言だけ、『良いと思った選手がいたら、熱心にとにかく通うこと。これしかないよ』と伝えました」 しかし、ある時から潮目が変わった。そう井元は振り返る。「1999年だったかな。奈良の郡山シニアに行くと、175センチのショートと、168センチぐらいのセカンドがいた。どちらもPLへの進学を希望していて、どちらも右投げ左打ちの良い選手だったけれども、ボクはショートの子だけを獲った。その後、セカンドの子は大阪桐蔭に進みました。そして、PLのグラウンドで行われた春季大会で1年生から試合に出ていた彼に再会した。ちょうどお母さんもいらしていて、『先生、うちの息子は今でもPLに憧れています』と言われたことを覚えています。この選手が誰だか分かりますか?」 話の途中から察していた。その選手とは──千葉ロッテや阪神で活躍した西岡剛だ。(文中敬称略)【後編】につづく
2022.03.27 07:01
NEWSポストセブン
野球の名門校だったPL学園も信仰と結びつきが強い(写真はPL教団の象徴・大平和記念塔)
PL学園「入試倍率0.02倍」 野球部復活はおろか生徒激減の窮状
 センバツ甲子園の第6日目となる3月24日の第1試合には、優勝候補筆頭と目される大阪桐蔭が登場する。圧倒的な戦力を擁し、2012年と2018年には春夏連覇も果たした“大阪の覇者”だが、かつて激戦区・大阪で圧倒的な存在感を放っていたのが、桑田真澄や清原和博ら数多のプロ野球選手を輩出したPL学園だ。2016年を最後に硬式野球部は休部となり、OBやファンからは復活を望む声が多く聞かれるが、その道のりは遠そうだ。『永遠のPL学園』(小学館文庫)著者の柳川悠二氏(ノンフィクションライター)がレポートする。 * * * コロナ禍となって3度目の春を迎え、第94回選抜高校野球大会も1回戦最後の試合となる「大阪桐蔭対鳴門(徳島)」をもって、出場32校が登場することになる。3月21日までは2万人という観客上限があったものの、まん延防止等重点措置条例が解除される翌22日からはそれも撤廃され、甲子園もようやく平時に戻りつつある。 春と夏の高校野球の季節に、出場校の情報や試合の速報記事とともにインターネット上に大量にアップされているのが春3度、夏4度の日本一を誇るPL学園の関連記事だ。とりわけ1970年代後半から1980年代にかけた黄金期の鮮烈で劇的な戦いぶりは、半世紀近い年月が過ぎ去っても色あせず、いまだ絶大な人気を誇るゆえ、記事も絶えないのだろう。 また、立浪和義が今季から中日ドラゴンズ監督に就任し、2年先輩の清原和博とYouTubeで共演するなど、OBらがYouTubeを使って往年のPLを語って好評を博していることも、その要因であるはずだ。 1956年創部(学園の建学は1955年)の野球部が歴史に終止符を打ったのが2016年だが、学校そのものが“消滅”の危機にあることをその後も筆者は報じてきた。 とにもかくにも、生徒数の減少が下げ止まらないのだ。 PL学園の入学試験の競争倍率に興味を持ったのは2015年だった。その年は、国公立コースと理文選修コースの外部募集がいずれも定員割れ。理文選修コースにいたっては、0.23倍という大阪府下の共学私立で最低の入試倍率であった。 野球部も、そして母体となるパーフェクトリバティー教団(PL教団)も最盛期を迎えていた1980年代のPL学園は、男子の金剛寮と女子の葛城寮に男女あわせて1000人以上が暮らすマンモス校だった。 ところが、野球部が活動を停止した頃のPLは、付属の中学からエスカレータ式に進学してくる生徒もいるとはいえ、生徒数は一学年60人ほど。生徒数が減少する中で、高校の校舎に耐震工事が必要だという行政の指導が入り、2014年頃から中学の校舎で授業を受けるようになっていた。ちなみに、高校の校舎は現在も取り壊されることがないまま、どんどん老朽化が進んでいる。80人の募集に受験者は1人 以来、筆者は毎年2月になると大阪市立中学校高等学校連合会が公表する競争倍率をチェックし、PLは年々、募集定員を減らしながら、競争倍率も低下してきた。 いつしか両コースともに1クラスとなり、昨年度は国公立コースが15人の募集に3人の出願(いずれも併願)で、0.20倍。理文選修コースは80人の外部募集に対し、出願はわずか7人(専願3人、併願4人)で、競争倍率は0.09倍という状況だった。 そして、今年度は国公立コースが20人の外部募集に対し、受験者が1人でその倍率は0.05倍。この受験者は併願のため、もし本命校があってそちらに合格すれば、入学者はゼロとなる。 さらに、理文選修コースの競争倍率はなんと0.02倍だ。80人の外部募集に対し、先願・併願とも1人しかいない。野球部が活動を中止した2016年と比較しても、さらに生徒数を減らしていることは想像に難くない。 同校のOBで、学校に近しい関係者が話す。「野球部は、信者の子供以外の生徒を集めて強化されてきましたが、2014年秋に新入部員の募集停止となり、外部から入学してくる球児がいなくなった。最近では剣道部やバレーボール部も外部から選手を集められなくなり、PL学園の生徒のほぼすべてが信者の2世、3世となっています。1学年の生徒はだいたい20人弱ですね……」 母体となるPL教団では、3代教祖である御木貴日止氏が2020年12月に死去し、後継者が指名されずに「教祖不在」の状況が続き、3代教祖夫人である美智代氏が教祖代理のような立場で実権を握っているとされる。「美智代夫人の意向で、信者の子供以外の生徒を受け入れたくないという方針を学校はとっている。信者数が減少しているのだから、今後、劇的に入学希望者が増えることは考えられない。PL学園とPL教団はバトントワリングにも力を入れてきた歴史がありますが、バトン部も指導者が頻繁に替わるなど、活動が危ぶまれている。母校は、寺子屋のような学校になってしまった印象です」 宗教法人でありながら教祖不在の状況を続けるPL教団と、外部からの入学が期待できず、野球部の廃部に続き、剣道部やバレーボール部が苦境に置かれているPL学園。両者が向かう先は──。
2022.03.24 07:00
NEWSポストセブン
奄美・大島高校のエース左腕・大野稼頭央
奄美・大島高校の注目左腕 「中学時代は軟式で連合チーム」から甲子園へ
 鹿児島本土から約380キロの「奄美大島」から、3月18日に開幕したセンバツ甲子園の切符を勝ち取ったのが鹿児島県立大島高校だ。練習時間や移動距離などで離島は不利だと思われがちだが、本来ならハンデとなる環境が、むしろアドバンテージに変わることもあるという。ノンフィクションライターの柳川悠二氏がリポートする。【前後編の前編】大阪桐蔭のエースより凄い!? およそ6万人が暮らす鹿児島県の奄美大島にある県立大島高校の塗木哲哉監督(54)は、昨年11月、東京を訪れていた。目的は全国の地区大会を勝ち抜いた10校が集結し、秋の日本一を決する明治神宮大会の視察だった。 島内では「大高(だいこう)」の愛称で親しまれている大島高校は、昨秋の鹿児島大会を離島勢として初めて制し、九州大会でも準優勝。21世紀枠で初出場した2014年以来となる2度目の甲子園出場を“当確”させていた。1回戦全試合の観戦を終えた塗木監督は、同行していた小林誠矢部長にこう口を滑らせた。「ひいき目なしにうちの大野が一番かもしれんな」 大阪桐蔭には前田悠伍という同校史上最高の左腕と目される1年生投手がいる。広陵(広島)にも明秀日立(茨城)にも好投手や豪腕がいた。それでも大高のエース左腕である大野稼頭央に抱く自信と期待は膨んだ。PL学園出身の松井稼頭央(現・埼玉西武ヘッドコーチ)のファンだという両親に名付けられた大野は、175センチの細身の体型ながら、全身を使ったしなやかな美しいフォームで白球を投じてゆく。MAX146キロ。大きく曲がる縦のスライダーが宝刀だ。「とにかく野球センスがある。ピッチャーしかできないような選手って多いじゃないですか? 稼頭央の場合は、打つことも守ることも素晴らしい。左投げですが、内野だってできるかもしれない。『お前の商品価値を高めるのは、これからのお前次第だ』と伝えています」(塗木監督) 高校からプロ入りを目指す大野の大願が成就すれば塗木監督にとって教え子のプロ第一号となる。 大島高校を訪れた2月下旬の2日間、奄美は雨に祟られた。時折、スコールのような強い雨風が襲い、慌ててひさしのある場所に急ぐナインの姿があった。年間の雨量は屋久島が上回るものの、曇天が多い奄美大島は国内でも日照時間が突出して短いことで知られる。 184センチ、105キロという大柄な体格で、コテコテの鹿児島弁を操る塗木監督は、数学の教師だ。54歳となる現在まで甲子園とは無縁の監督人生を送ってきた。鹿児島南、頴娃高校、志布志高校の監督時代で最も甲子園に近づいたのは監督2年目の1995年夏(県準優勝)。県大会を制した経験もない。そんな彼が奄美にやってきたのが、2014年春だ。副部長から2016年7月に監督となり、5年半後、聖地にたどり着いた。「一緒に島に残ろう」 鹿児島実業や樟南といった伝統校や、神村学園、鹿児島城西のような新勢力が猛威を振るう私立優位の鹿児島にあっても、塗木監督は30年近く甲子園出場の夢を公立校の球児たちと共有してきた。「鹿児島南の時代から、生徒たちを関西遠征に連れ出し、時には甲子園で試合を見せたりしていた。生徒には『甲子園で勝つぞ』と言い続けてきた。今回の選抜出場で、鹿児島南から続く教え子たちに、『甲子園に行く』という約束は果たせた」 塗木監督の座右の銘は、「■啄同時」(■は口偏に卒。そったくどうじ)──。鳥の雛が卵から孵ろうとする時、内側から殻を突いて音を立て、タイミングを見計らったように親鳥もまた外側から殻を突いて殻を破る手助けをする。教師(監督)と生徒(球児)とはそういう関係が理想だと考えている。「若い頃は、まだ雛が内側から殻を突いていないのに、外からガンガン割ろうとしてしまう親鳥だった。野球の指導も、時期とタイミングが大事と今は思います」 今秋のドラフト上位候補に名前が挙がる大野は、奄美空港に近い龍南中学時代は部員数が9人に満たない軟式野球部に所属し、大会には連合チームで出場していた。単独チームではない学校で野球に励んだ投手が甲子園のマウンドに上がるなど聞いたことがない。 中学まで無名に近かったが、それでも強豪校から誘いがあったという。「鹿児島実業OBの知り合いがいて、誘われていたんです。本当は僕も鹿実に行こうと思っていました」 大野はそう言ってはにかんだ。大高でバッテリーを組む西田心太朗は、中学時代に練習試合や公式戦で頻繁に戦った仲だった。父親が大島の野球部OBという共通点もあり、両家が揃った食事会で西田に「俺は大高に決めた。一緒に大高で甲子園を目指そう」と誘われ、奄美に残る選択を下す。 昨秋の鹿児島大会をひとりで投げきり、九州大会では準々決勝の興南戦を完封。しかし、「1週間に500球まで」という球数制限に引っかかり、準決勝、決勝のマウンドは初めて仲間に託した。左腕で146キロを投げるというのも出色だが、スライダーやカーブ、チェンジアップと、すべての球種が決め球となる。「打者が球種を分かっていても打たれないボールを追求したい。甲子園はどこよりも投げやすいマウンドだと聞きますけど、やっぱり初めて立つところなので、不安はある。でも、ドキドキ、ワクワク、楽しみです」 そんな大野を島に引き留めた西田は、選抜出場の功労者かもしれない。「小学校、中学校と見てきて、島外を含めてのトップクラスの投手で格が違った。体は小さかったけど、全身を使ってキレの良いボールを投げていた。稼頭央と一緒ならどこまで行けるのか。そうしたワクワク感があった」 西田のインタビューには主将で遊撃手の武田涼雅も同席していた。彼の父親もまた大高のOBだ。いや部員の両親のほとんどが大高出身だ。郷土と母校への愛着が連綿と続く。武田もエースに対する絶対の信頼を口にした。「九州大会の準々決勝・興南戦では、それまでのスタイルを一変させて、技巧派に切り換えた。球数制限を気にし、三振よりも打たせて球数を減らそうとした。そうしたスタイルチェンジがすぐにできるところも強み」(後編につづく)【プロフィール】柳川悠二(やながわ・ゆうじ)/ノンフィクションライター。1976年、宮崎県生まれ。法政大学在学中からスポーツ取材を開始し、主にスポーツ総合誌、週刊誌に寄稿。著書に『永遠のPL学園』(小学館文庫)。2016年、同作で第23回小学館ノンフィクション大賞を受賞。撮影/比田勝大直※週刊ポスト2022年4月1日号
2022.03.21 07:01
週刊ポスト
OB会
PL学園野球部OB会中止 「教祖不在」となった母体教団のいま
 春夏通算7度の甲子園制覇を誇るPL学園高校野球部の廃部問題を取材するようになった2014年以来、私は新年早々に開催されるOB会総会の取材を「仕事始め」としてきた。プロ野球の2022年シーズンに向けて桑田真澄OB会長が巨人軍の1軍投手チーフコーチに昇格し、1987年に春夏連覇した時の主将である立浪和義が中日ドラゴンズの監督に就任するなど、今年の総会にも大きな注目が集まっていた。だが、昨年に引き続き新型コロナの感染拡大によって中止となってしまった。 本来なら総会が予定されていた1月8日、私はPL学園の母体であるパーフェクトリバティー教団(以下、PL教団)の聖地に向かった。大阪府は近鉄喜志駅と富田林駅にまたがる広大な敷地内には老朽化した建物が建ち並び、新年が明けたタイミングでも人気はなかった。 御木徳一(みき・とくはる)が起こしたひとのみち教団を引き継ぎ、2代教祖・御木徳近(みき・とくちか)が事実上の初代としてPL教団を立教したのは1946年だ。学園野球部の甲子園での活躍などによって知名度が高まり、教団は公称265万人にまで拡大した。しかし、3代教祖である御木貴日止(みき・たかひと)が1983年に教祖となって以降は、次第に教勢を失っていき、3代が2020年12月5日に63歳で亡くなってから聖地は時間が止まったかのように静まりかえっている。その理由は、4代教祖のなり手がおらず、教団トップの不在が続いていることに尽きる。教団の布教活動に長年携わってきた元・教団教師が話す。「PL病院の理事長秘書をしている3代様のご長男や、長く教団の発展に貢献してきた幹部が教祖就任を打診されたようですが、いずれも就任には至っていない。3代様が帰幽(死去)されてもう1年以上が経過しますが、一般の会員(信者)が参加するような大きな祭典が実施されず、教祖の大切な仕事でもある信者子息への命名や、亡くなった方への諡(おくりな=仏教で言う戒名)も行われていない。もはやPLは宗教団体としての形を成していないように見えます」 神道系の新宗教であるPL教団の信者が信仰する対象は、大元霊(みおやおおかみ)であり、教祖は現人神のような存在ではない。だが、信者の高齢化が進む中で、いつしか教祖その人を崇める風潮が生まれた。その教祖が不在という状態は、信者にとって信仰の対象を失ったようなものではないだろうか。学園の入試競争倍率は0.09倍 現在の教団を取り仕切っているのは、教務総長の立場である3代教祖の妻・美智代氏だとされる。もともと夫婦は2代教祖の夫人らから結婚を反対された過去があり、長らく美智代氏は表舞台に姿を見せることはなかった。ところが、夫が脳の疾患に倒れた2007年以降、教団の機関紙などにも登場するようになる。 全国に200か所以上もあった教会の統廃合を進めて教団運営をスリム化し、不祥事が相次いでいたPL学園硬式野球部を、存続を願うOBや高校野球ファンの声があるにもかかわらず廃部を進めたのも、美智代夫人の意向があったとされる。 私が取材を開始した2014年頃は、正門で受付さえすれば野球部のグラウンドがある教団の敷地には簡単に入れた。しかし、私が頻繁に野球部の練習や試合に足を運び、野球部の廃部問題と信者減少に苦しむ教団の状況を報じるうちに、いつしか機械式のゲートができ、信者である証のカードを提示しなければ敷地内には入れなくなった。 ここ数年で、聖地の風景も様変わりしたという。富田林駅側の本庁から喜志駅側のPL学園へと向かう途中には、大きな谷や池があったが、現在、そこは埋め立てられて平地となっている模様だ。「美智代様が陣頭指揮を執るようになってから、聖地の中でも神聖な奥津城(初代教祖が眠る墓)の周りを、引き取った土砂、私たちからすれば不浄なもので埋め立ててしまった。また、お亡くなりになった信者の遺骨が納められる芸生殿も、大平和祈念塔の近くに移してしまった。信者の心情としては歴代の教祖が眠る奥津城の近くに納骨してほしいわけですから、不信感を募らせる方もいます。毎月の一般会費が700円だったところ、1000円に値上げとなったことも会員の不興をかっています」(前出の元・教団教師) ただ、美智代氏が4代に就任する動きはないという。「美智代様はご自身が教祖になったら会員が離れてしまうことを分かっているのではないでしょうか。要は適任者がいないんです」と、元・教団教師は嘆く。 信者の高齢化はより深刻となり、2世や3世が通うPL学園高校は年々定員を減らしながら、昨年の外部募集の競争倍率は国公立コースが0.20倍、理文選修コースにいたっては0.09倍と、目も当てられない苦境にある。 そういう教団と学園の窮地に、教祖不在の状況が続いているわけだ。教団の再興と野球部の復活へ向けた策は、やはり見えてこない。■取材・文/柳川悠二(ノンフィクションライター)、文中敬称略
2022.01.18 16:00
NEWSポストセブン
桑田真澄、清原和博
甲子園20勝の桑田真澄 球数は「週500球以内」の現行ルール内だった
 1年夏から甲子園制覇を果たし、5季連続出場、3年夏も深紅の大優勝旗を手にする──100回を超える歴史のある夏の高校野球において、1983~1985年のPL学園における桑田真澄と清原和博ほど鮮烈な印象を残したコンビはいない。 PL学園の1期生で、1962年に監督として同校を初めて甲子園出場に導いたあとは選手を勧誘する担当となった“伝説のスカウトマン”井元俊英、PL学園の名将・中村順司、リトルシニア時代から清原と対戦経験があり、のちにPL学園でチームメイトとなった今久留主成幸らが明かす「KK秘話」とは。ノンフィクションライターの柳川悠二氏がリポートする。(文中敬称略) * * * 2016年に休部となるまで、PLグラウンドのレフト後方には、屋内練習場が建っていた。 清原の打球はレフトのネットを越え、屋内練習場の屋根に頻繁に当たった。嘘か真か、そうしたド派手なパフォーマンスに機嫌を損ねる先輩がいたから、気兼ねした清原がライト打ちをマスターしたとも囁かれる。「飛んでいくんだから仕方ない。それも竹バットでオーバーフェンスするんですから。僕ら小物は、先輩の目を気にして、良い当たりをしたあとなんかは送りバントの練習に切り換えたりしていましたが、清原君はそんなことありませんでした」(今久留主) KKのふたりは1年夏の甲子園で夏春夏の3連覇がかかったあの池田と対戦し、桑田が投げるだけでなく、相手エース・水野(雄仁)から一発を放ち、勝利する。清原も決勝の横浜商戦でラッキーゾーンに第一号アーチを架けた。「清原には遠くへ飛ばす力と技術があった。その代は体が小さな選手が多かったから、チームのバランスを考えても清原は不可欠な存在でした」 中村はそう振り返る。 KKが2年生の秋、PL学園は秋季大阪大会準決勝で上宮と対戦する。同校の捕手は、大正中学時代の桑田とバッテリーを組んでいた西山秀二(元広島ほか)だ。現在、ラジオ日本で解説者を務める彼は、プロ時代も含めて、桑田ほど正確なコントロールの投手を知らないと語る。「桑田のボールを受けたことで、構えたところに放れるピッチャーが当たり前のように中学生の僕は思っていた。だから当時は、桑田がすごいとは思っていなかった。 でも、別の高校に入学すると、現実は違った。もっと言うと、僕がプロに入ってから、正確なコントロールで驚いた投手は(広島のエースだった)北別府学さんだけでした。つまり、桑田は中学生の時点で、プロのトップレベルと同じぐらいのコントロールを持っていたんです」キヨはバットを振ればいい 清原にとって大きな挫折は最上級生となって迎えた1985年のセンバツ、準決勝で伊野商業に敗れた試合だ。相手のエースはのちに西武で一緒になる渡辺智男。清原は3三振を喫した。その日の夜の屋内練習場では、清原が上半身裸で、体から湯気を出しながら剛速球を打ち込んでいる姿が幾人にも目撃されている。 この頃、井元は清原にアドバイスを送ったことがある。夏場の連戦に向け、清原の下半身に疲労が蓄積することを井元は危惧していた。ゆえに、足腰を鍛えておいたほうがいい。そんなつもりで清原に声をかけた。「桑田に頼んで一緒に走ったらどうだ?」 すると明くる日、清原から「断られました」という報告を受けた。井元は、桑田に理由を訊ねた。「どうも『僕のペースには絶対についてこられない。オレは走るから、キヨはその時間、バットを振ればいい』と伝えたらしいんです。以来、清原は全体練習終了後にグラウンドの外野フェンス沿いを素振りしながら何周もするようになった。その後は屋内でティバッティング。それが終わるタイミングに、ゴルフ場を走ってきた汗だくの桑田が帰って来るんです」 桑田は5回の甲子園出場で、学制改革後は最多となる通算20勝を挙げた。25試合に登板し、イニング数は197回と3分の2。防御率は1.55だ。 ただし球数は少なく、1985年のセンバツ準々決勝天理戦ではわずか82球で3安打完封した。今春から導入された「1週間に500球以内」という甲子園の球数制限に照らしても、桑田がそれに抵触するケースはなかった。中村が証言する。「当時の甲子園は、少なくとも準々決勝から3連投でした。桑田には『3連投に耐えられる体を作ろう』と話していた。桑田なりに考え、ノースローの時期を作ったりして、私もそれを容認しました。当時から『肩は消耗品』という認識を持って取り組んでいましたね」 1983年から1985年までは、元朝日放送アナウンサーの植草貞夫の言葉になぞらえるなら、「甲子園はKKのためにあった」だろう。 2001年にPL学園の暴力問題が発覚すると、井元はPLを追われ、その後、青森山田、そして現在は秋田のノースアジア大明桜で同様の役割を担っている。PL以外でもプロ選手を誕生させた。「PLに戻って野球部監督となったのが25歳の時。ちょうど60年。ようやってきたと思います」 甲子園に5季連続で出場した選手は、早稲田実業の荒木大輔(元ヤクルトほか)、最近だと智弁和歌山の黒川史陽(現楽天)など、過去に12人いるが、KKのようにふたり揃って抜群の実績を残したケースはない。「あれほどの才能が同じチームにそろって、4回も甲子園の決勝に進出する。そんなことは二度と起こらないでしょう」 伝説のスカウトマンは引退を考えているのだろうか。KKを回顧する言葉を受け、ふとそんなことが脳裏をよぎった。【プロフィール】柳川悠二(やながわ・ゆうじ)/ノンフィクションライター。1976年、宮崎県生まれ。法政大学在学中からスポーツ取材を開始し、主にスポーツ総合誌、週刊誌に寄稿。著書に『永遠のPL学園』(小学館文庫)。2016年、同作で第23回小学館ノンフィクション大賞を受賞。※週刊ポスト2021年8月20日号
2021.08.10 07:00
週刊ポスト
KKコンビは今も語り継がれる(写真/AFLO)
KKコンビをPLに導いた伝説のスカウトマン「努力の天才が2人いた」
 1年夏から甲子園制覇を果たし、5季連続出場、3年夏も深紅の大優勝旗を手にする──100回を超える歴史のある夏の高校野球において、1983~1985年のPL学園における桑田真澄と清原和博ほど鮮烈な印象を残したコンビはいない。ノンフィクションライターの柳川悠二氏が、PL学園の伝説のスカウトマンや最強世代の同級生が驚愕した「KK秘話」をいま明かす。(文中敬称略) * * * 85歳になる井元俊秀に指定されたのは、PL学園の最寄りとなる近鉄喜志駅から10分ほど歩く国道沿いの喫茶店だった。 伝説のスカウトマンとして、高校野球の世界で知る人ぞ知る井元との付き合いは6年になる。日焼けした肌は傘寿を過ぎているとは思えないほど若々しく、何より記憶力と、現場に通い詰める健脚ぶりにはいつも驚かされる。 ところがこの日は様子が違った。井元は杖をついて車から降りてきて、もともとの痩身がさらに痩せ細った印象を受けた。「あんたとも(中学硬式野球である)ボーイズの練習を見に行ったことがあったよね。子どもたちの練習なら、何時間だって眺めていられるんです。ところがコロナで大会が中止になり、練習も自粛となった。出かけることがめっきり少なくなり、足が衰えてしまった。さすがに年なのかなあ」 井元はPL学園の1期生で、1962年に監督として同校を初めて甲子園出場に導いたあとは、選手を勧誘する担当として、名将・中村順司と共に常勝軍団を築いた。もちろん、桑田真澄、清原和博のKKコンビも井元が入学に導いた。井元は言う。「5季連続で甲子園に出場して、桑田は20勝、清原は13本塁打を打った。あの時代、PLには努力の天才がふたりいた」 甲子園通算58勝、驚異の勝率8割5分3厘を残した元監督の中村は、桑田が大正中学2年生で、準硬式野球部に所属していた時に投球を目にする機会があった。その日は大阪大会の決勝で、相手中学のエースだった清水哲(のちにPLに進学)と投げ合った桑田は敗れている。「私は入学してくれた選手たちはフラットな目線で指導するのを信条としていた。特別な印象は覚えていません」(中村) 一方、井元が桑田をはじめて見たのは八尾フレンド(硬式)の練習に参加していた時だ。中学野球部を引退した桑田は、高校入学までの間、小学生時代に所属したチームで練習をしていた。「高校野球で活躍する投手は身長が174~175cmぐらいという持論が当時の私にはあった。PLでも体の大きかった尾花高夫や金石昭人などは、プロ野球の実績から考えると、高校時代は活躍できていません。現在のように大型の選手を成長させるトレーニングや医学的な知識がありませんでしたから」 その頃の桑田の身長は172cmぐらいだった。身長が伸びることを想定すれば、井元が理想とする体格といえた。「キャッチボールから違った。フォームが美しく、ボールに伸びがあった。ボールの回転もいい。すぐにご両親とお会いした。お父さんが社交的な人でね、息子のことをよく自慢しておった」 井元にとって清原との出逢いも忘れられない。泉大津の公園で練習していた岸和田シニア(硬式)を視察した時のことだ。広い公園の外野に、清原はとてつもない当たりを連発していた。当時は引っ張り専門のプルヒッターの印象だった。「学習院大学時代に、静岡県伊東市でキャンプを張っていた立教大の長嶋茂雄さんのバッティングを見たことがある。ミートしてから20mぐらいの打球の初速と角度に希有なホームラン打者の才能が詰まっていた。清原のバッティングを見て大学時代のチョーさんを思い出しました」入学前の“秘密合宿”で… 今久留主成幸は、自身が小中学時代に在籍した摂津リトルシニアと、清原の岸和田リトルシニアが大阪府の覇を争うライバル関係にあったこともあり、小学生の時から清原とは対戦経験があった。「関西では有名な選手で、体がとにかく大きかった。中学時代に神宮球場で対戦したこともあり、その時はセンターのフェンスを直撃する弾丸ライナーの二塁打を打たれたのが記憶にあります。清原君とは高校で一緒になるわけですが、その頃、関西で目立った選手はだいたいPLに入学しました」 1983年にPL学園の野球部に入部した31期生は27人(途中2人が退部して最終的には25人)。彼らが生まれた1967年は、丙午であることを忌避して出産を控える家庭が多かった前年の反動で、出生数が増加した。 寮のあるPLは、大阪府の私学連盟から「地方の子ども達を積極的に入学させてほしい」と依頼があり、野球部も地方出身者が多かった。ところが、この年は私学連盟から「生徒があふれることも考えられるため、大阪の子どもも入学させてほしい」と伝えられていた。そうしたいきさつがあり、大阪出身のKKも同時に入学。通常は一学年20人前後のPLにあって、27人が入部したのだ。 実は入学前の1月に、27人は鹿児島県の指宿に集められ、合宿が行なわれた。入学もしていない入部予定者だけでの合宿など当時も現在も許されていない。時代が黙認したのだろう。 今久留主は井元のこんな訓示から合宿がスタートしたことを覚えている。「春夏連覇できるメンバーを揃えたので、まず顔合わせをしたかった」 中学時代に所属したリーグごとに選手が固まる中、少数派である準硬式の桑田は寡黙な印象で、輪の中に積極的に加わろうとはしなかった。しかし、キャッチボールの相手を捕手の今久留主が務め、距離が40mほどに伸びた頃、桑田から「座ってほしい」と依頼された。「なんやこいつ偉そうに、って。そしたら地を這うようなボールがど真ん中に来た。ファーストインパクトにみんな驚いた」 PL学園から明治大、そして1989年のドラフトで大洋に入団した今久留主は西武を経て引退したのち、大洋でスカウトを務めた。その時、選手を見定める際の基準としたのが指宿合宿だったという。「桑田君のランニング時の蹴り足の強さ、清原君や田口(権一。KKと共に1年夏よりベンチ入りした投手)君の姿勢の良さや野球への取り組み方。もちろん、PLでは入学後、いろいろあって背中が丸くなっていくんですが(笑)、大成する選手の姿勢を見定めるうえで、あの時の原体験が判断の基準となっています」 KKはPL学園の入学前から伝説を残していた。 井元は桑田の入学を前に、社会人野球・神戸製鋼を率いて都市対抗を制した経験などがある清水一夫に、桑田への指導を依頼した。「今度、凄いピッチャーがPLに入学する。とにかく良い子で、特別な才能があると思うんです」 仕事が落ち着いていた時期で、二つ返事で了承した清水は、やはり桑田のキャッチボール姿を見ただけで、井元に伝えた。「この子は素晴らしい。将来が楽しみだ」 当初、3週間の指導の予定が、いつしか夏までに延びていた。桑田は清水との出逢いによって、カーブが曲がるようになったと証言している。【プロフィール】柳川悠二(やながわ・ゆうじ)/ノンフィクションライター。1976年、宮崎県生まれ。法政大学在学中からスポーツ取材を開始し、主にスポーツ総合誌、週刊誌に寄稿。著書に『永遠のPL学園』(小学館文庫)。2016年、同作で第23回小学館ノンフィクション大賞を受賞。※週刊ポスト2021年8月20日号
2021.08.09 07:00
週刊ポスト
小学校の頃から「夢はメジャーリーガー」だった達孝太
天理の193センチ右腕・達孝太は怪物の卵 「高卒メジャー」への階段
 1週間で500球という球数制限が導入された今年のセンバツを象徴する投手が、奈良・天理高校の達孝太だった。この193センチ右腕は初戦の宮崎商業戦(3月20日)で161球、2回戦の高崎健康福祉大高崎戦(3月25日)で134球、そして中3日が空いた準々決勝の仙台育英戦(3月29日)で164球を投じていた。一定の登板間隔はあり、球数制限に抵触するわけでもなかったが、1試合あたりの球数が多かったことでこのまま投げさせ続けるのかという空気が甲子園を包み込んでいた。同じように連投が続いた中京大中京(愛知)の畔柳亨丞(くろやなぎ・きょうすけ)と共に、紫紺の大旗の行方よりもドラフト上位候補ふたりの登板可否に話題が集中していた。  そして迎えた3月31日の準決勝・東海大相模(神奈川)戦──。 投げようと思えば投げられた、と達は振り返った。球数制限や前々日に負った左脇腹のケガに関係なく、無理をすれば準決勝のマウンドに上がることも可能だった。  でも、投げなかった。「今だけを見るならぜんぜん投げられるんですけど、1日でも長く野球をすることを考えれば、今日は投げるべきじゃない。メジャーリーガーという目標があるので、そこに行くために今無理して故障しても全く意味がない。(先発回避は)監督と相談して決めました」 中村良二監督も、この日は登板させる気は微塵もなく、その理由を「脇腹は(こじらせると)やっかいで、将来のある選手ですから」と語った。  メジャーリーガーになる──達からその夢を聞いたのは、2年前の秋だ。高校1年生の大言は、なんとも清々しく、記者の心にも心地よく響いた。「将来は、メジャーしか考えていません。できれば高校卒業後、すぐに」 無名の高校1年生が、高卒メジャーの夢を語るとは、時代も大きく変わったと思ったものだ。その日、達は秋季近畿大会の決勝・大阪桐蔭戦に先発。入学以来、公式戦の登板実績はほとんどなく、先発も初めて。192センチ(当時)の達は、高校野球で一時代を築く大阪桐蔭を相手に8回4失点と好投し、天理にとって5年ぶりとなる近畿制覇の立役者となった。 彼にプロフィールを訊ねて驚いたのは誕生日だった。2004年3月27日。つまりあと数日、誕生が遅れていたら、1学年下となる早生まれだ。高校生ぐらいまでなら、早生まれの子は同級生にあらゆる面で後れを取りがちで、それがスポーツならなおさらだろう。プロ野球の歴史を振り返っても、早生まれの選手が少ないことは周知だ。“ほぼ中学生3年生”という状態で、マッチ棒のようにひょろひょろの体でも当時、140キロに迫る直球を投げ、加えて手先を起用に使って多種の変化球を投じるところもまた、これから月日(トレーニング)を重ねていけば“怪物”に化けていく無限の可能性が感じられた。 父・等さん(44)の身長は173センチで、母・るみさん(44)も162センチと、さほど大きくはない。「私も家内も、父親が大きいんです。孝太の身長は隔世遺伝だと思います(笑)」 そう等さんは話す。他の子に後れをとらないよう、達が生まれた頃から食事にも気を遣い、カルシウムの摂取を目的に離乳食として煮干しをいったものをすり鉢ですりつぶし、おかゆに混ぜて食べさせたという。「早生まれの影響が出ないように、家内がそのへんは工夫してやってくれました」 等さんは大阪産業大附属高校の元高校球児で、卒業後は奈良産業大学に進学。社会人の「ドウシシャ」(軟式野球チーム)でプレーを続け、引退後は社業に従事しながら同チームの監督も6年務めた。 長男(孝太)が野球を始めるのは自然の流れだったろう。「小学校、中学校は楽しくのびのびやればいいと思っていました。本人は小学校の卒業文集に夢はメジャーリーガーと書いていましたけど、思いきり投げて、思いっきり走って。私が難しいことを言うことはありませんでした」今は無理をする時じゃない 中学時代には硬式野球の泉州南堺ボーイズに在籍しながら、等さんと親交のあるPL学園卒の元プロ野球選手・覚前昌也(元近鉄)の主宰する野球教室にも通わせた。その教室には、1歳上に結城海斗という投手がいた。体は達より小さくても、達より速いボールを投げる少年を、達は憧憬の目で眺めていた。そして、結城は中学卒業と同時に、海を渡ることを決心し、カンザスシティ・ロイヤルズと16歳という日本人として史上最年少でマイナー契約を結ぶ。結城と親しかった達は、プロセスは異なれど彼と同じようにアメリカの大地で野球をしたいという夢をより強く抱く。 しかし、ボーイズでは控え投手に甘んじ、成長痛などもあって、思うようにプレーができなかった。「中学3年生まで成長痛があって、常に『今は無理する時じゃない』と伝えていました。当時は無名でしたが、私から見ても、可能性がある子だと思っていましたね。私も高校時代には福留孝介がいたPL学園ともやりましたし、近畿大会では智弁和歌山とも戦った。奈良産業大学の後輩には山井大介(中日)がいましたから、プロになるような選手の身体能力みたいなところは私なりにわかっていたつもりです。まず、体が大きい。高い身長によって角度のついたボールが投げられるというのは、投手としてひとつの可能性だし、武器です。体もまだまだひょろひょろでしたから、高校に進学して、体が出来上がってきたら絶対に面白いピッチャーになると思っていました。試合で投げられなくても、後ろ向きな言葉はひとつもかけず、ミスしても怒ることはなかった。『マウンド上でふて腐れた表情をするな』と、マウンドでの表情だけは注意していました」 今は無理する時じゃない──それは奇しくも、準決勝で敗退後、達が語った言葉である。野球経験者の父のアドバイスを受けて、成長しきっていない肉体で無理を重ねる危険性を達は中学時代から叩き込まれていた。 それにしても、名門・天理に身を置く高校1年生が、高卒でアメリカに行くという夢を語ることはなかなかできることではない。「昔から、人と同じことをやりたがらない子で、同年代の子と同じようなことを言うのも嫌がっていましたね。教育方針として、『思ったことは口にしなさい』とは伝えていました。目標にしても、手が届きそうな低い目標ではなく、高く持て、と。低い目標なら、それに準じた努力しかしない。目標が高ければ、結果としてワンランク下のレベルとなっても良い形に落ち着きますから」 こうした父の指導は、「160キロを目標にしていたら158キロ程度にしか到達しない。だから163キロが目標です」と花巻東時代に話していた大谷翔平(現エンゼルス)の姿に重なる。「ラプソード」の効果 達は2年前から身長が1センチ伸び、球速もグンとアップした。昨夏には甲子園交流試合でも登板し、天理の大黒柱へと成長を遂げてきた。そんな息子に対し、等さんは投手の投じるボールの回転数や回転軸、変化の幅をトラッキングする機械「ラプソード」を買い与え、達は仲間と共に練習中に使っている。およそ80万円もする機械を高校生に買い与えることもなかなかできることではない。学校関係者や他の選手たちの目も気になるのではないか。「そうですか? 今はAIの時代ですよね。仕事もAIが活用されますし、高校野球の現場で使うことに抵抗はありません。息子が欲しいというラプソードを、『個人で用意しますので部で活用していただけますか』と話をしたら、中村監督も快く承諾してくださいました。息子だけでなく、チームのみんながレベルアップしてくれたらそれでいいです」 2回戦の健大高崎戦で最速を更新する148キロを記録し、2安打完封した達は、試合後、決め球に使うフォークボールと、カウントを整える時に使うフォークボールの違いを質問され、こう答えた。「どちらも握りは同じ。カウントを整えるフォークは、カーブみたいに、上に抜く感じで投げます。イメージとしては(クレイトン・)カーショー(ドジャース)のカーブ。三振をとりにいくフォークは、シュート成分を少なく、落差を落として(著者註・よりストレートに近い軌道で、落差を小さくして)、ストレートに偽装させることを意識しています」 ふつうの高校生が使わないような言葉を駆使して、変化球の彼なりの極意を口にする様は、「変化球投手」と自認するダルビッシュ有(パドレス)がダブった。 準々決勝まで3試合で計459球を投じた達だが、登板を回避した準決勝でチームは東海大相模に敗れた。天理の一員として日本一は目指しつつ、甲子園はあくまで通過点だ。「舞台が甲子園だからといって、自分にとっては普通の公式戦。自分のピッチングが思うようにできなかった。それが感想です」 まだまだ肉体は成長段階にあり、「球数の多さ=制球面の不安」は露呈したとしても、それは高校3年生になる怪物の卵の“のびしろ”でもある。海の向こうへ続く夢の過程としては、またひとつ進化を遂げられた甲子園ではなかったか。■取材・文/柳川悠二(ノンフィクションライター)、撮影/杉原照夫
2021.04.03 16:00
NEWSポストセブン
OB会
PL学園野球部の復活は夢のまた夢 「入試倍率0.09倍」の現実
 甲子園にやってくる度に、つくづくあの学校が聖地に立つことは二度とないんだなと郷愁に似た感情を抱く。その学校とは無論、春夏あわせて7度の日本一を達成しながら、事実上の廃部状態となっているPL学園(大阪)である。 活動に終止符を打った2016年夏から5年の月日が流れても、いまだに復活を望む声は大きい。プロ野球選手82人を輩出した野球部のOB会長である桑田真澄氏は部の復活に向けて学校との折衝を重ねているし、高校野球のオールドファンもまた、お馴染みの「ああ、PL 永遠の学園」の校歌をもう一度、甲子園で聞きたいと願っている。 復活の可能性はありますか──。廃部の真相と、同校野球部62期生の最後の夏を追った『永遠のPL学園』(小学館刊)を刊行して以降、幾度となくそうした質問を私は受けてきた。答えは決まって、「あり得ません」だ。 第1の理由は、生徒数の壊滅的な減少である。2015年頃から、私はPL学園の高校入試出願状況を確認するのを習慣としているが、今年の入試競争倍率はもはや目も当てられない。 普通科2コースのうち、理文選修コースは80人の外部募集に対し、出願はわずか7人(専願3人、併願4人)で、競争倍率は0.09倍である。国公立コースは、15人の募集にわずか3人(いずれも併願)で、0.20倍だ。PL学園中学から進学する生徒がいるにしても、定時制も合わせて1000人を超える生徒が敷地内の寮で暮らしていた時代を考えれば、信じがたい状況だ。 第2の理由が、学園の母体であるパーフェクトリバティー教団の規模縮小ある。教団を創立し、拡大し、野球部をこよなく愛した2代教祖・御木徳近氏の時代の信者が高齢化し、信者数が激減する中で、二世・三世が通う学園生徒数も減っているのだ。 そして、昨年末には、教団の土台が揺るぎかねない訃報があった。3代教祖の御木貴日止氏が12月5日に死去したのだ。しかし、教団の公式HPは3代の逝去すら掲載しておらず、4代教祖が誰になるかも明らかになっていない。大阪府富田林市の大本庁や全国の教会で行われる神事は昨年末から止まったままだ。 4代教祖として有力視されているのが、御木貴日止氏の妻で、闘病生活の続いた教祖に代わって活動を取り仕切っていた美智代氏だ。こうして教団が混乱にある中、学園の硬式野球部の復活に力を注ぐ状況にあるとは考えがたいのである。  今年のセンバツでは、新型コロナウイルスの感染対策として、アルプススタンドでの演奏や声を出した応援が禁止となったが、代わりに事前収録した10曲を試合の攻撃中にスピーカーで流すという粋な計らいを日本高野連が行った。決定が直前だったために、収録が間に合わなかった学校は、甲子園での友情応援に慣れた市立尼崎のブラスバンド部の演奏を収めた2枚のCD(10曲ずつ収録)から10曲を選んで流している。 もし、夏の選手権大会もこの形式を継続するなら、ぜひCDに加えてもらいたい曲がある。PL学園の「ウイニング」だ。これは天理の「ワッショイ!」や智弁和歌山(智弁学園)の「ジョックロック」と同等か、それ以上に甲子園を熱狂の渦に包んだ名曲であった。 PL学園の黄金期といえる1980年代から90年代にかけて、対戦校を震え上がらせたあの魔曲が聖地に流れること──それは復活が絶望的なPL学園野球部への鎮魂歌となる。■取材・文/柳川悠二(ノンフィクションライター)
2021.03.31 19:00
NEWSポストセブン
マスク姿の清原氏
「清原監督でPL学園野球部復活を」 野球教室催すOBらに気運も
 2月初め、都内にある野球練習場で、清原和博氏(53)が晴れやかな笑顔を見せていた。傍らには高校3年と中学3年の2人の息子、そして元妻でモデルの亜希さん(51)の姿もあった──。 2月5日にプロ野球経験者が高校生・大学生を指導するために必要な「学生野球資格」を回復した清原氏。球界復帰に向けて着実に歩むとともに、私生活でも充実した日々を送っているようだ。 練習場には豪快な打撃音が響き渡っていた。中では清原氏が長男、次男にバッティング指導をしていたようだ。およそ2時間半にわたる練習を終えた後、先に出てきた清原氏は自分の車のトランクから白木のバットを2本取り出すと、亜希さんの車に届けた。息子たちへのプレゼントだろうか。 続けて出てきた息子たちを交え、4人は立ち止まるとしばし談笑。屈託のない笑顔で息子たちが清原氏に話しかけ、それを亜希さんが穏やかな笑みを浮かべて見守っていた。 その後、4人で向かったのは、新宿区内にある有名焼肉店だった。そこでも一家団欒のひとときを過ごしたようだ。焼肉店を出た後、清原氏は別の車で去って行く2人の息子と元妻を名残惜しそうな表情で見送っていた。 その2日後にも、同じ練習場で次男を教える清原氏と亜希さんの姿があった。練習後、3人は銀座にある高タンパク・低カロリーを謳うスポーツ選手向けのレストランへ。食事を終え店から出てくると、次男と亜希さんが車へ向かうのを見送る清原氏。2人が迷わないよう車の方向を指差して教える場面もあった。 息子たちに自分の野球のすべてを注入しようとしている清原氏。そんな元夫を、亜希さんも頼もしく思っているようだ。「亜希さんは清原氏の違法薬物使用疑惑が報じられた2014年に子供たちを連れて離婚しましたが、子供が野球のことで悩んだとき、アドバイスできるのは父親であり元プロ選手の清原氏しかいない。離婚後も清原姓を名乗ってきたのも、野球を通じた父と子の絆を大切にしたいという思いからではないか」(清原氏の知人) プロ野球界でも清原氏復帰に向け、支援の手が差し伸べられている。「清原氏は執行猶予期間が満了した時に『野球界、とくに私自身の原点でもある高校野球に捧げたい』とコメントした。“いずれは高校野球の指導者に”という思いを抱く清原氏のために、同じPL学園OBの立浪和義氏、宮本慎也氏、片岡篤史氏らが中心になって、野球教室などを催し、廃部になったPL学園を『清原監督』で復活させようという動きもあります」(スポーツ紙デスク) 清原氏に話を聞いたが、終始無言を貫き、マスクとサングラスで表情を窺うことはできなかった。野球とも元妻とも“復縁”は近いのかもしれない。撮影/渡辺利博※週刊ポスト2021年2月26日・3月5日号
2021.02.16 16:00
週刊ポスト
野球の名門校だったPL学園も信仰と結びつきが強い(写真はPL教団の象徴・大平和記念塔)
新宗教系のスポーツ名門校 宗教色薄い学校多いが幸福の科学は例外
 箱根駅伝を盛り上げた創価大学、そして全国大学ラグビー選手権で初優勝を果たした天理大学は「宗教団体」を母体とする。なぜ教団はスポーツ教育に力を入れるのか──。『永遠のPL学園』(小学館刊)の著者でノンフィクションライターの柳川悠二氏が裏側に迫った。(文中敬称略) * * * 信仰とスポーツ活動が密接に結びついた学校といえば、PL学園だろう。黄金期にあたる1980年代は全国に点在する教会のネットワークで有望中学生の情報を集め、大阪府の富田林でセレクションを実施。入学した選手の学費などは、教団の寄付を惜しみなく投じて賄なっていた。「神に依る野球」「PLの野球は世界平和に通ず」という理念のもと、プレー中は、打席に入る際や守備に就く際に、ユニフォームの胸の辺りに隠れたアミュレットと呼ばれる御守りを握りしめ、祈りを捧げた。 PLは神道系の新宗教であるが、勝利を嘆願する神頼みではなく、「練習通りの力が出せますように」という願いを込めたルーティンのような所作であった。 あれほどの人気を集めたPLも、学園を運営する教団の信者数が激減し、あわせて学園の生徒数も大きく定員割れして硬式野球部に力を注げる状況ではなくなった。度重なる暴力事件などの不祥事もあり、野球部は2016年に事実上の廃部に。剣道部も全国随一の強豪校として名高かったが、かつての勢いはない。 しかしながら、100年を超える高校野球の歴史を、新宗教系の学校が彩ってきたのは確かだ。甲子園常連校では辯天宗を母体とする智弁学園(奈良)や智弁和歌山、そして天理や創価。また、激戦区の大阪で夏1回の出場経験がある金光大阪(金光教)や東京の佼成学園(立正佼成会)も強豪である。 現在も名門であり続ける新宗教系の学校は、PLとは違って宗教色が薄いのが特色だ。以前、智弁和歌山の前監督である高嶋仁氏に話を聞くと、自身も信者ではないと打ち明け、こう続けた。「野球部だけやなく、ほとんどの生徒が信者ではありません。以前は、試合中に念珠をつけてプレーする選手もいましたが、高野連から危険だということで禁止になった」 新宗教系学校のあり方が問われる時代に逆行するように、宗教色を隠さないのが幸福の科学を母体とする幸福の科学学園だ。教団の総本山である那須精舎の敷地内に、生徒が集まっている。 野球帽には「RO」という大川隆法総裁のイニシャルが入り、試合後に歌う校歌『未来をこの手に』は仏陀の霊指導によって大川総裁が作詞したもの。 野球部は甲子園出場経験がないが、同校のチアダンス部は国際大会でも活躍する。同教団のHPにはこう記されている。〈2018年3月、中学チアダンス部は国内最大級の大会で全国優勝、高校チアダンス部はアメリカで行われた世界大会で第3位を獲得しました〉 バトントワリングに力を入れていたPL学園同様に、スポーツで活躍するだけでなく、応援に熱心なのも新宗教系学校の特徴かもしれない。 かつてPLでは学園野球部が教団の広告塔の役割を担った。だが、平成、令和と時間が流れる中で、宗教団体とスポーツの結びつきも少しずつ変化を遂げてきている。※週刊ポスト2021年1月29日号
2021.01.21 07:00
週刊ポスト
御木貴日止氏が3代教祖になった年、KKコンビが登場(写真/共同通信社)
PL教団の3代教祖死去で「PL学園野球部」は復活するのか?
 桑田真澄、清原和博、立浪和義、宮本慎也、前田健太ら80人以上のプロ野球選手を輩出した名門・PL学園野球部が活動休止となったのは2016年夏のこと。「謎の休部」の背景には、学園の母体であるパーフェクトリバティー教団(以下、PL教団)の意向があったとされ、OBたちや高校野球ファンから活動再開を求める声があるにもかかわらず、復活には至っていない。そうしたなか、教団トップが亡くなった。野球部復活への道筋にどのような影響があるのか。『永遠のPL学園』などの著書があるノンフィクションライター・柳川悠二氏がレポートする。 * * * PL教団の3代教祖・御木貴日止(みき・たかひと)氏が亡くなったのは、12月5日だった。2007年以降は脳の疾患などによって車椅子生活を余儀なくされていた貴日止氏は、4日に体調が急変して病院に運ばれ、翌朝に息を引き取ったという。63歳だった。「会員(信者)さんが気にしているのは、やはり後継者がどなたになるかです。おしえおや様(PL教団における教祖の呼称)が体調を崩されていたこともあって教団運営に大きな影響力のある奥様の美智代様か、三男二女のお子様の中から選ばれるのか。有力視されているのは、PL病院の理事長秘書をされている30代のご長男です」 そう証言したのは、教団の元教師(布教師)だ。PL教団は後継者問題について「ノーコメントです」(渉外課)とするのみ。2代教祖が亡くなった年に「KKコンビ」が入学 大阪府の富田林市にあるPL教団の広大な聖地は、近鉄喜志駅と富田林駅にまたがり、正殿や信者が修行を行う錬成会館など大きな建物が点在する。小中高の一貫校であるPL学園の校舎やかつて硬式野球部が汗を流したグラウンドもまだ残っている。また、近隣には羽曳野丘陵を見下ろす大平和祈念塔やPL病院も建てられている。この聖地に足を踏み入れるには、特別なゲートで会員証を提示しなければならない。 貴日止氏の密葬が行われていた12月8日、全国から200人近い教団教師が参列するという情報が入っていた。私は外周を歩きながら中の様子をうかがったが、人の気配はまるでなく、入場ゲート付近に喪服姿の信者が数名いただけだった。 貴日止氏が教祖を引き継いだのは、1983年2月だ。ひとのみち教団を前身とするPL教団を立ち上げ、信者拡大に力を注いだ2代教祖・御木徳近(とくちか)氏が亡くなり、後継者に指名されていた貴日止氏が25歳という若さで神道系新宗教のトップに就く。 先代の徳近氏は「人生は芸術である」をPL処世訓の第1条に掲げ、信者の芸術活動を推奨。とりわけ野球を愛し、傘下に置くPL学園の硬式野球部の強化を図った。教会のネットワークを活用して全国の有望中学生の情報を集め、信者から集めた献金を投下して授業料などが免除となる特待生制度で選手を入学させた。 1970年代から80年代にかけて、甲子園のアルプススタンドを生徒と信者で埋めて巨大な人文字を描き、教団名を広く認知させる「広告塔」としても野球部を活用した。徳近氏が亡くなった1983年の宗教年鑑によると、当時の信者数は公称でおよそ260万人。教団の最盛期といえる。 貴日止氏が3代教祖となったこの年、PL学園に入学してきたのが桑田真澄、清原和博のKKコンビであり、野球部もまた黄金期を迎えた。ふたりは5季連続で甲子園に出場し、そのうち2度、全国制覇を遂げた。 貴日止氏は教祖に就いた年の12月に美智代氏と結婚し、三男二女を授かった。総理大臣経験者をはじめとする政財界やスポーツ界と人脈を持ち、強烈なカリスマ性のあった2代教祖に対し、まだ若い貴日止氏がリーダーシップを発揮するのは簡単ではなかっただろう。美智代氏との結婚に反対する幹部もいた。 そのうち2代を慕っていた信者が高齢化し、信者数は減少していく。追い打ちをかけるように貴日止氏は2007年に脳の疾患という健康問題にも直面する。そうしたなかで、教会の統廃合が進められた。その一方、聖地にログハウス、学園の小学生が住む寄宿舎を建設するなど、教団の規模からしては不釣り合いな建物が次々と建設された。3代教祖は「復活を考えていた」? 2代の時代から教祖一族を支えて来た人物が話す。「一連の教団改革を主導してきたのは、おしえおや様の奥様である美智代様ですが、2代様の遺産を取り壊すようなことが相次いだことで、心が離れていく会員さんも多かった。最近も正殿の移転計画があるとかで、信者から献金を募っていた。移転先は(教団が管理する)聖丘カントリー倶楽部の3番ホールと7番ホールにかかるようで、そこに移転するとなればコースを改造しないといけなくなるので簡単にはいかないはずですが……」 現在の信者数は公称でおよそ70万人。「実際の数はその10分の1にも満たないでしょう」というのは教団の機関紙『芸生新聞』の発行に携わったことのある元信者の証言だ。信者の高齢化が進み、学園に入学を希望する2世・3世も減少していくなかで起きたのが、2016年7月の学園野球部の活動休止だった。 部内で起きた度重なる不祥事が活動休止へと舵が切られる大きな要因だったが、入学試験を受ける中学生の数が、定員の3割にも満たない学園がそもそも存続の危機にあることが背景にあった。 休部となる直前の2016年4月には、野球部が練習中のグラウンドに突然、貴日止氏と美智代夫人がやってきたという話を当時の部員から聞いた。貴日止氏は1塁側のファウルゾーンに椅子を置き、練習をしばらく眺めていたという。甲子園で春夏7回の優勝、通算96勝をあげた野球部の姿を最後に見ておこうという考えだったのだろうか。 野球部のOBが出場した昨年11月のマスターズ甲子園の際には、3代教祖の貴日止氏が人文字応援を許可し、教祖の代理人が「マスコミは廃部などと言っていますが、近い将来、おしえおや様は復活を考えていらっしゃいます。まずは指導者を探しましょう」とOB会の新会長に就任した桑田真澄に伝えたという。だが、その真意も今となってはわからない。 3代の死去によって、あるいは新たな教祖の誕生によって、全国の高校野球ファンが願ってやまない硬式野球部の復活の道筋が開くことはあるだろうか。 いや、何も変わらないだろう。野球部を復活させる以前に、教団の再建が4代には求められるからだ。■取材・文/柳川悠二(ノンフィクションライター)
2020.12.15 07:00
NEWSポストセブン
野球の名門校だったPL学園も信仰と結びつきが強い(写真はPL教団の象徴・大平和記念塔)
PL教団3代教祖・御木貴日止氏が死去 後継者問題に注目集まる
 春夏の甲子園で通算7度の優勝を果たした、名門・PL学園の硬式野球部が活動を休止してからおよそ4年──。学園の母体であるパーフェクトリバティー教団(以下、PL教団)もまた、新たな時代を迎えようとしている。同教団の3代教祖・御木貴日止(みき・たかひと)氏が12月5日に亡くなっていたことが分かった。63歳だった。『永遠のPL学園』などの著書があるノンフィクションライター・柳川悠二氏がレポートする。 * * *「12月2日はおしえおや様(PL教団での教祖の呼称)の63歳の誕生日で、(大阪府)富田林市の教団の聖地では式典が行われました。体調に不安のあるおしえおや様もその日は講話をされた。ところが、4日に体調が急変して病院に運ばれ、翌朝に亡くなったそうです。8日の密葬には、全国の教会から教師(いわゆる布教師)が聖地に集まります」(教団関係者) 密葬が行われている時間帯に、私は聖地の外周を歩いた。全国から200人近い教師が集まっているというが、入場ゲート付近には確かに喪服を身に纏った信者の姿があった。 PL学園野球部が活動休止となった時の教団トップである貴日止氏の今回の訃報と、気になる後継者について、PL教団の渉外課に詳細を訊ねたところ、 「5日に亡くなられたのは事実です。(後継者問題については)ノーコメントです」 という回答だった。教団は5日の夕刻には全国にある教会に教祖死去の連絡を入れている。一部を抜粋して紹介する。〈私たちがおしえおやと仰ぐ御木貴日止教主が今朝ほど、忽然として神去られました。私たちを日々お守りくださっていたおしえおやの神業は天界にかえられてしまいました〉 PL教団は、戦前にあった「ひとのみち教団」を前身とし、その2代教祖だった御木徳近(とくちか)氏が1946年に佐賀県鳥栖市で立教した神道系の新宗教だ。徳近氏は「人生は芸術である」をPL処世訓の第1条に掲げ、信者の芸術活動を推進して教勢を拡大していった。その象徴がPL学園の野球部である。1970年代から80年代にかけて、教団からのバックアップを受けて全国から選手を集め、甲子園のアルプス席に巨大な「PL」の人文字を描く。教団名を世に広め、1980年代に信者数は公称260万人超にまで拡大していった。 広大な聖地には大平和祈念塔が建てられ(1970年建立)、小中高の一貫校であるPL学園やPL女子短大(2009年に休校)、看護学校などを設立。近隣には教団が管理するゴルフ場があり、かつてはPLランドという遊園地もあった。 教団にとって大きな転機となったのが1983年だ。徳近氏が逝去し、妻側の一族から養子に迎えていた貴日止氏が25歳の若さで教団を継承する。 その半年後に貴日止氏は、現在の妻・美智代氏と結婚した。三男二女に恵まれるも、結婚から24年目の2007年に、貴日止氏は脳の疾患で倒れ、以降は積極的な布教活動が難しくなっていた。 現在の信者数は公称約70万人で、教団にかつての勢いはない。施設内の建物は老朽化が進み、信者の二世・三世が通う学園の生徒数も、高校で一学年およそ50人程度。母体となる教団が力を失ったことが、2016年の学園野球部の活動休止の最大の理由であった。 やはり注目されるのは後継者問題だろう。PL教団では教祖が生前に後継者を指名することを慣例としていたが、63歳で亡くなった貴日止氏の継承者は明らかになっていない。 冒頭で紹介した各教会に送付された文面では、教団の神事が今後は一時的に中止になることが報告されている。元教団教師が語る。「教団の神事を止めないために、後継者を明らかにしておく必要があったわけです。教祖は11月に、広島・呉で奥様やお付きの人を連れて釣りに興じてらっしゃいます。体調に不安があったとはいえ、まさかこのような最期になるとは考えてもいなかったのかもしれません。信者としては当然、次のおしえおや様がどなたになるのか、大きな不安を抱えながら決定を待っている。4代教祖として名前が挙がるのが、ともに30代であるご長女と、ご長男。有力視されているのは、PL病院の理事長秘書をしているご長男です」 最盛期に3代を継いだ貴日止氏の後継者には、会員数が減少するなかで教団運営の手腕が問われることとなる。
2020.12.08 16:25
NEWSポストセブン
1998年、3球団から1位指名を受けて西武に入団した松坂大輔(時事通信フォト)
プロに進まなかった”松坂世代”3人が語る「あの夏の衝撃」
“松坂世代”の一人、阪神の藤川球児投手が今季限りでの引退を表明したが、実際に甲子園で怪物・松坂大輔と対峙した選手の多くはプロ入りが叶わず、挫折と栄光を胸にその後の人生を駆け抜けてきた。近著に『松坂世代、それから』(インプレス)があるスポーツライターの矢崎良一氏が、今年“不惑”の40歳を迎える松坂世代3人にスポットライトを当てる。 * * * 1998年夏の甲子園。怪物エース松坂大輔(現・西武)を擁する横浜高校は、前年秋の明治神宮大会、春のセンバツ大会を制し、公式戦無敗のまま春夏連覇という前人未踏の偉業に向かって突き進んでいた。「松坂だけのチーム」とタカを括っていた 星稜高校(石川)の五田祐也主将は、3回戦で横浜との対戦が決まると、取り囲む記者たちに「みんな横浜が勝つと思ってるんでしょ? 俺たち、負けませんよ」と強気に言い放った。地元石川県で「松井2世」と称されたこともある4番の五田を中心に、主力選手たちは附属の星稜中学時代、軟式野球で全国制覇も経験したツワモノ揃い。“無敵艦隊”横浜を相手にしても、「松坂だけのチームでしょ」とタカを括っていた。 しかし、試合前の横浜のシートノックをベンチから見た時点で、「これは勝てない」と圧倒される。「松坂はもちろん凄い。でも、松坂以外(の野手)が凄い」と唸った。 試合は初回、横浜の先頭打者・小池正晃(現・横浜DeNA二軍コーチ)のホームランで先制した横浜が5-0で快勝する。完封の松坂は決して本調子ではなかったが、走者を背負った時、ギアを上げるかのように本気のボールを投げ込み星稜の打者たちをねじ伏せた。 五田はこの敗戦で「野球観が変わった」と口にする。「俺たちは田舎の野球だった」と。それまでは、とにかくたくさん練習して、試合になったら気迫を前面に出していく。それが野球だと思っていた。横浜には、そこに技術や戦術といった要素が加わり、それが強さの裏づけとなっていた。甲子園の後、新聞や雑誌で横浜の記事を貪るように読みあさり、横浜の選手に会えば熱心に話を聞き、横浜の野球を研究する。 大学進学後、高校時代の故障が原因で現役を断念した五田は、一般企業に就職しサラリーマン生活を送っていたが、やがて地元に戻り、自らが育った星稜中学の野球部のコーチに就任する。監督をサポートしながら、五田が技術、戦術を叩き込んだチームは、全国制覇7度という中学軟式野球界屈指の強豪となっていく。教え子の多くは星稜高校に進み、甲子園に出場して活躍したり、プロ入りした者もいる。「今でも僕の中で“強いチーム”のモデルはあのときの横浜です。あんな凄いチームを作りたい。そして、あの試合前に感じた敗北感。ああいう悔しさを後輩たち、教え子たちには絶対に味あわせたくない.そう思って“野球”を教えています」 40歳を手前にして教員採用試験に合格し、今では母校で教壇にも立つ。“北陸の王者”星稜で、五田はいまや屋台骨のような存在となっている。「まだ高校生のときの松坂に勝てていない」 星稜を下した横浜は、準々決勝でPL学園(大阪)を延長17回の死闘の末に撃破し、準決勝で明徳義塾(高知)と対戦する。前日のPL戦で250球を投げていた松坂は先発を回避。しかし明徳の強力打線は横浜の2年生投手を攻略し、8回表を終わって6-0と大量リードを奪う。 関本大介はアルプススタンドの明徳応援席からチームメイトに声援を送りながら、「勝てるぞ!」と勝利を確信していた。高知大会では20人のベンチ入メンバーだったが、甲子園はベンチ入り人数が16人(当時)に減るため、スタンドの応援部隊に回っていた。 8回裏に横浜が4点を返し、それが奇跡への序曲となる。続く9回表、横浜の選手たちが守備に就くと、投手交代が告げられ、「ピッチャー、松坂君」の場内アナウンスと共に、凄まじい声援に送られ松坂が小走りでマウンドに向かう。「球場の空気が一変しました」と関本は振り返る。スタンドの四方八方から地鳴りのような歓声が沸き上がり、まだ明徳がリードしているにも関わらず、関本ら応援の選手たちまでが、「俺たち、ここにいちゃいけないんじゃないか……」と追い込まれた気持ちになっていく。 松坂登板で勢いづいた横浜を、もはや明徳は止めることが出来なかった。9回裏、横浜の怒濤の攻撃の前に逆転サヨナラ負け。のちに「奇跡の大逆転」と語り継がれる試合だ。 サヨナラヒットの打球がセンター前に落ちた瞬間、明徳の選手たちはグラウンドに崩れ落ち、しばらく立ち上がれなかった。スタンドの関本も「心が折れました。“ああぁー”と声が漏れて、力がすーっと抜けていったんです」と、その時のショックを表現する。 高校を卒業した関本は、子供の頃から憧れていたプロレスラーになる。明徳の馬淵史郎監督の口添えで大日本プロレスに入門し、「強くなりたければ、練習しなさい」という高校時代の教えのままに努力を続け、デビューから20年を経た今ではメインエベンターとして活躍している。 プロレスは対戦相手との勝負と共に、観客とも常に戦っている。歓声を浴びてリングに上がる日々の中、「まだまだですね。僕はまだ会場の雰囲気を一瞬にして変えることは出来ていないですから。高校生の松坂に勝てていないんです」と自分を諫める。 関本にとって、あの夏、マウンドに上がった瞬間に、甲子園の3万4000人の大観衆が“ミラクル”を確信し、球場全体の空気を変えてしまった本物の“スーパースター”松坂の姿は、今も大きな目標となっている。強力なビジネスツール「僕、松坂世代です」 連日のドラマチックな試合展開で日本中の注目が集まる中、決勝戦、横浜の前に最後に立ちはだかったのは京都成章高校だった。 1回表、京都成章の先頭打者、主将の澤井芳信は、松坂の不用意に投げたストレートを力強く叩き、サード左に痛烈なライナー性の打球を打つ。横浜のサード斉藤清憲がグラブに当てて弾き、ファーストに送球してアウト。もし、この打球があと30cm左に飛んでいたら、高校野球の歴史が変わっていた。 立ち上がり、連日の激闘の疲れからエアポケット状態にあった松坂は、この打球で目が覚めたかのように一気にアクセルを踏み込む。澤井の“幻のヒット”の後は、京都成章打線に1本のヒットも許さないまま試合は進んでいく。 澤井は5回頃から「まだノーヒットか」と意識していた。口には出さないが、他の選手たちも気づいていたはずだ。しかし、覚醒した怪物の前に、もはや為す術もなかった。3-0。松坂の59年ぶりとなる決勝戦ノーヒットノーランの快挙と共に、横浜高校は史上5校目となる甲子園春夏連覇を達成する。「あの試合を屈辱だと思ったことはない」と澤井は言い切る。センバツで2-18と大差の初戦敗退を喫し、「京都の恥」とまで言われたチームが、リベンジを目標に再び甲子園に乗り込み、一戦一戦、力をつけて勝ち取った準優勝。だから試合後の円陣で、チームメイトに「胸を張って帰ろう」と言葉を掛けた。 戦いを終えた時、「世界観が変わった」と言う。甲子園で勝ち進むのは小学校時代から名前を知られたエリート選手が揃う強豪校、名門校ばかり。その中で、地元の無名選手が集まった創部10年ほど(当時)の新鋭校が勝ち進み、松坂を筆頭とする「違う世界の人間」と思っていた有名選手の中に、「ひょっこり入り込んでしまった」と笑う。入り込んだことで、「俺たちも、そこにいていいんだ」と思えた。 そして、各打者が松坂の前に三振の山を築く中で、澤井だけが、打てないまでも三振はしなかった。「上に進んで高いレベルの野球に揉まれれば」と、卒業後、澤井はプロを目指し大学、社会人と野球を続ける。 夢は叶わず、26歳で現役を引退。しかし、新たな夢となったスポーツマネージメントのビジネスに転出し、今では自らの会社『スポーツバックス』を設立。日米で活躍した上原浩治(元巨人)や侍JAPANの4番打者・鈴木誠也(広島)、同じ松坂世代の平石洋介(ソフトバンク打撃兼野手総合コーチ)ら、多くのアスリートのマネージメントを行う敏腕社長だ。“松坂世代”は、今の澤井にとっては強力なビジネスツールでもある。「野球をやっていなかった人でも、『僕、松坂世代です』と自己紹介することがあると思うんです」と澤井は言う。他にそんな学年はなかなかない。実際、仕事現場で人から「この人は甲子園の決勝戦で松坂投手と戦った……」と紹介されると、「あぁ、あの時の」と反応が返ってくる。 あの夏から22年が過ぎた。「現役時代は、プロで活躍している選手ははるか遠いところにいる感覚でしたが、今は引退して第2の人生を始めた人も多い。一方、ビジネスの世界では僕らの世代はいよいよ脂が乗ってくる時期。いつか一緒に仕事が出来たら楽しいだろうなぁ」 澤井はかつてのライバルたちと、セカンドステージでの勝負の日を楽しみにしている。●やざき・りょういち/1966年山梨県生まれ。出版社勤務を経てスポーツライターに。細かなリサーチと“現場主義”でこれまで数多くのスポーツノンフィクション作品を発表。著書に『元・巨人』(ザ・マサダ)、『松坂世代』(河出書房新社)、『遊撃手論』(PHP研究所)、『PL学園最強世代 あるキャッチャーの人生を追って』(講談社)、近著に『松坂世代、それから』(インプレス)がある。
2020.09.13 07:00
NEWSポストセブン

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