松坂大輔一覧

【松坂大輔】に関するニュースを集めたページです。

佐々木朗希の高校時代を振り返る(時事通信フォト)
「佐々木朗希は強豪校に進まなくて正解だった」 松坂大輔育てた横浜高校元部長が分析
 異次元の球を投げ込み、先発登板する試合が社会的注目を集めている。こんな現象はなかなか見られない。ロッテ・佐々木朗希(20)だ。その佐々木について、名門・横浜高校の部長、コーチを歴任し、松坂大輔(元西武)をはじめ、涌井秀章(楽天)、柳裕也(中日)ら球界を代表する投手たちの「育ての親」として知られる小倉清一郎氏が語った。 佐々木は4月10日のオリックス戦で28年ぶり史上16人目の完全試合を記録。20歳5カ月での達成は史上最年少記録だった。4月17日の日本ハム戦も8回まで走者を1人も出さない完全投球で大きな反響を呼んだ。 小倉氏も、佐々木の活躍に衝撃を受けたという。「とんでもない投手が現われたね。あれだけ左足を高く上げられるのは股関節が柔らかいから。努力の賜物だと思う。身長(190センチ)が高い上に股関節が強くて柔らかいから、球の出所が普通の投手より30センチ高い位置から制球良く投げ込める。あの角度から160キロを超える直球、150キロ近いフォークを投げ込まれたらプロの打者でもなかなか打てないよ。思いっきり腕を振れば170キロは出るでしょう。でも肩を故障する可能性があるからブレーキをかけているんだと思う。いま佐々木は20歳だっけ? 22~23歳で本当のピークを迎えると思う。その時にはさらに凄いピッチャーになっているよ」(以下、カギカッコ内は小倉氏) 小倉氏から見れば、佐々木にはまだまだ多くの改善点があるという。「投げ方を見ると、大谷翔平(エンゼルス)のほうがもうちょっと前でリリースしている。大谷は投げ終わった後に左足より右足が前にくるでしょう? 佐々木はあと10センチ打者寄りでリリースできるようになったら、打者はさらに球速表示以上の速さを感じる。あと球種を読まれやすくなるから、テイクバックの時に右腕を体の中に入れたほうがいい。 球種も直球、フォークが大部分だけど、あと1つは増やしたいね。カーブとか緩い球を覚えれば投球の幅が広がってくる。松坂、ダルビッシュ(有)、大谷はウイニングショットになる良い変化球が複数あったけど、佐々木はまだスライダー、カーブを磨いている段階。裏を返せば伸びしろだらけだ。高卒2~3年目の松坂と比較すると、投げるスタミナ、フィールディング能力、変化球の精度は松坂の方が上。でも投げている球の凄み、エンジンは佐々木が1枚も2枚も上だよ」「大船渡で正解だった」「平成の怪物」と評された松坂と、「令和の怪物」と呼ばれる佐々木。その歩みは対照的だ。松坂は1年目に16勝、2年目に14勝、3年目に15勝と3年連続最多勝のタイトルを獲得しているのに対し、佐々木は1年目に体力づくりに専念して実戦登板なし。2年目の昨年は中10日の登板間隔で11試合登板して3勝をマークした。今季も5試合目の登板となった4月24日のオリックス戦後に、疲労蓄積を考慮されて登録抹消された。「時代が違うから一概に比べられないよな。昔は各高校のエースと呼ばれる投手たちは1試合で130~140球なんてざらに投げていたけど、今は違う。球数制限があるし、選手の体の強さも違う。松坂は1日800球投げていた時もあったよ。『ケアをしろ』とは言ったけどね。ただ、将来を考えて無理をさせないように注意していた。(1998年夏の甲子園準決勝の)明徳義塾戦も0-6のままだったら投げさせるつもりはなかったしね。8回に4点取って逆転の可能性が出たから(救援で9回の1イニングを)投げさせた」 佐々木は大船渡高で甲子園出場が叶わなかった。3年夏の岩手県大会決勝・花巻東戦で、國保陽平監督は故障予防の観点から佐々木を登板させず、チームも敗れた。この起用法は大きな波紋を呼び、スポーツの枠を超えて社会問題としてワイドショーに取り上げられるほどだった。小倉氏は「佐々木はあの時点でまだ何試合も連投で投げられる馬力がなかった。これはオレの推測だけど、佐々木を先発させても6~7回にスタミナが切れて、花巻東の打線につかまると國保監督は考えたんじゃないかな。負ける上に壊れるリスクがある。花巻東は強いし、佐々木が投げるイコール勝つわけじゃないんだ」と前置きした上で、こう続けた。「ただ……甲子園常連校だったらああいう起用法はできない。いくら力のある2番手投手がいたとしても、佐々木の球を見たら指導者は使いたくなるよ。オレだって花巻東戦で(佐々木を)使っていたかもしれない。甲子園にいける位置にいるならなおさらね。國保監督は凄いよ。佐々木が私学の強豪校にいって育成法がおかしかったら、つぶれていた危険性があった。県立の大船渡に進学したのは将来を考えると正解だったんじゃないかな」 まばゆい才能は環境、指導者に恵まれて大きな輝きを放っている。佐々木は「勝利至上主義」に縛られなかった大船渡、将来を見据えて酷使しない育成方針を貫くロッテに入団したからこそ生まれた「怪物」なのかもしれない。
2022.05.13 11:00
NEWSポストセブン
偉業を達成した佐々木朗希(時事通信フォト)
令和の怪物・佐々木朗希と平成の怪物・松坂大輔 2人を知る捕手・細川亨の述懐
 ロッテの佐々木朗希(20)が、3年目にして本格稼働となりそうだ。高校時代から160キロ台の直球を投げて将来を嘱望され“令和の怪物”と呼ばれた佐々木だが、肉体強化の必要性から、プロ入り後の一軍登板は限定的だった。それが今年はオープン戦から160キロ台を連発。西武では“平成の怪物”こと松坂大輔と正捕手としてコンビを組み、佐々木のルーキーイヤーには同じロッテに在籍した細川亨氏(現・ロキテクノ富山バッテリーコーチ兼ディフェンス担当)は、現状をどう見るのか。「朗希の長い腕からリリースされるストレートに怖さを感じましたね。ビューンと伸びるというか、もの凄いボールでした。マウンドから投げて角度が付いたボールには、恐怖すら感じたのを思い出します」 そう振り返る細川氏は2002年にプロ入りし、西武、ソフトバンク、楽天で正捕手を務めてきた。キャリア最終盤にはロッテに在籍し、佐々木が入団した2020年シーズンを終えたところで、現役を引退した。西武時代には球界を代表するエース・松坂大輔とコンビを組み、後に最多勝投手となる涌井秀章とも高卒新人の年からバッテリーを組んできた。ソフトバンク時代には“松坂世代”を代表する杉内俊哉や和田毅の球を受けている。 現在、細川氏がコーチとして所属するロキテクノ富山は日本野球連盟に所属する社会人硬式野球チーム。創部10周年を迎え、今シーズンから細川氏が招聘され、初の都市対抗大会の出場を目指している。 これまでのキャリアのなかで、平成を代表するエースたちのボールを受けてきた細川氏の目に、高卒新人の佐々木はどう映ったのだろうか。「当時はまだ若いというか、勢いだけで投げていたという印象ですね。ただ、日本人離れした手足の長さがありますから、バッターとしてタイミングがとりづらそうだと感じました。キャッチャーの目線からすればマウンド上の姿は大きく見えるし、リリースが前になるので打ちづらいと思いましたね」 当初から、佐々木は「3年目にローテション投手にする」という計画だったと細川氏は語る。「朗希の1年目に僕は二軍にいて、吉井(理人)ピッチングコーチは朗希を一軍に帯同させてマンツーマン指導していた。だからブルペンで受けるようなことはなかったが、朗希が投げたシード打撃の打席に立ったり、立ち投げの相手はしていました。外野で肩慣らし程度の立ち投げでも、直球の伸びは凄まじかった。 ただ、細いというか、自分の馬力だけで投げているイメージでした。トレーニングは絶対に必要だなとは感じましたね。あの体を見たら、首脳陣とすればケガをされるのが怖いというのはあったと思います。本当に細かったですよ。お尻とかも小さかったし、プロの体ではなかったですね」エース候補の新人に求めてきたこと それから2年が経ったわけだが、今年の佐々木は体つきが明らかに違うという。「お尻周辺が大きくなって躍動感がある。下半身が鍛えられ、体幹がしっかりしてきたと思います。投球動作のなかでしっかり静止できている印象ですね。ただ、先発ローテを守るというのは大変なことで、体を大きくする必要はないが、自分のペースを覚えること。主軸と下位のバッターとでは力感を変えていくなどの必要がある。遊びの部分を入れていけば、もっと楽に投げられると思います。まだピッチングが若くて、覚えることがたくさんあるが、経験を積んでいけば手がつけられないピッチャーになると思います」 捕手として豊富なキャリアのある細川氏から見て、球界を代表するエースに育っていくような投手に、共通項はあるのだろうか。「わかりやすい共通点というのがないんですね。エースとして育つような選手は個性を持っている。それぞれ違った理由で打たれづらいし、攻略されづらい印象です。ただ、新人時代からマウンド度胸というかマウンドさばきが卓越しているところは共通しているかもしれません」 細川氏がそうしたルーキーの球を受ける際には、心懸けていることがあったという。「とにかく新人にはストレートをしっかり投げさせましたね。変化球でゴチョゴチョやるのではなく、真っすぐで勝負する。涌井の時もそうでした。ストレートはピッチャーにとって大事な球で、まずはストレートをレベルアップさせるべきだと考えています。 涌井の1年目は1勝6敗でしたが、1年目にはほとんど変化球のサインを出さずにストレートだけで勝負した結果でした。それで1年目をやりきった涌井本人が何かをつかんで、2年目に12勝、3年目に17勝を挙げている。新人にはコントロールは求めないほうがいいと思います。しっかり腕を振って、自分の持っているものをしっかり出し切る。それでいいと思います」 そうした考え方を基本としたうえで、バッテリー間でコミュニケーションを取ることも重要だと細川氏は考えている。「期待の新人が入団してくると、キャンプのブルペンでは他のキャッチャーに捕らせて、自分はまずは投げる姿を横でしっかり観察する。バランスや癖を分析したうえで、ブルペンで球を受けるようにしていました。後ろや横からも見ることで、そのピッチャーのいい時と悪い時がわかるんです。シーズンが始まると課題はどんどん出てくるので、そこは会話をしながら解決していくことになる。 若い時は怒ったりして怖かったと言われましたが、10年目にソフトバンクに移籍した頃は当日ではなく翌日に話し掛けたりして、かなり気を遣うようになっていましたね(苦笑)。ピッチャーと同じで実戦で経験を重ねることで成長させてもらいました」 プロで経験を積み重ねてきた細川氏も、佐々木には大きな期待を寄せている。「今年の朗希はやると思いますよ。投げっぷりがまったく違う。3年目で慣れてきたのか、プロの顔つきになっていると思います」※週刊ポスト2022年4月8・15日号
2022.03.27 07:00
週刊ポスト
松坂大輔
松坂大輔の最高の笑顔に学ぶ“あきらめる”ことの本当の意味
 臨床心理士・経営心理コンサルタントの岡村美奈さんが、気になったニュースや著名人をピックアップ。心理士の視点から、今起きている出来事の背景や人々の心理状態を分析する。今回は、引退を発表したプロ野球・西武の松坂大輔投手について。 * * *「好きなまま終われてよかった」と話し、引退を発表した西武の松坂大輔投手。10月19日、メットライフドームで行われた対日本ハム戦、背番号18を付け、1回裏のマウンドに立った松坂選手を見て、東京ドームで彼のデビュー戦を見たことを思い出した。 1999年4月7日のあの日、高校野球は好きだがプロ野球を観戦しに行くほどでもなく、西武ファンでも日ハムファンでもなかったが、松坂選手見たさに球場に足を運んだ。甲子園で大活躍し、ドラフト1位で入団した彼の人気は凄まじく、東京ドームは試合開始前から人々の期待と熱気に溢れていた。 その期待通り、1回裏の初登板でマウンドに上がった松坂選手はいきなり三振を奪う。3番の片岡選手には155キロという球を投げ、片岡選手は空振りでバランスを崩し転倒。あの瞬間、東京ドーム全体が歓声とどよめきで揺れたような感覚がしたものだ。期待以上のパフォーマンスを見せつけた松坂選手は、まさに“平成の怪物”だった。 童顔で筋肉質ながら、細身ですっきりとした若きアスリートは、23年経って全てに貫禄がついていた。会見で「選手生活の後半は叩かれることが多かった」と語ったように故障に苦しみ、「本当は投げたくなかった」と本音を語った。どこまで投げられるか分からない“ダメな姿”でも、「全部さらけ出して見てもらおう」と最後のマウンドに立った松坂選手。最初に投げた球は高めに外れ、2球目は118キロのストライク、5球を投げてフォアボールとなり、彼の選手生活は終わった。 そんな状態まで、現役を続けることができたのは「あきらめの悪さ」と語った松坂選手だが、引退を考えるうちに“あきらめ”の意味が変わっていったのではないだろうか。「諦める」という言葉を聞けば、「断念する、放棄する、望みを捨てる、逃げる」という否定的な意味と同時に“後悔”という言葉が浮かんでくる。「もし今諦めてしまったら…」と考えると、後悔する感情の大きさ、時間の長さ、失うものの大きさを予想するものだ。 そして人には、それらを過大に見積もる「インパクト・バイアス」という傾向がある。まして松坂選手のように最初の10年の活躍があれば、その分バイアスは大きくなり、今の自分の状態を頭で分かっていても、心では自分を諦めきれなかっただろうことは想像がつく。 嫌なイメージのある「諦める」という言葉だが、その語源を紐解くと、「つまびらかにする、十分に見てわかる、心を晴らす」という意味だという。単に否定的なものではなく、自分で納得して現状を受け入れ、解決する方法を見つけ、心を晴らすというのが、この言葉が持つ本来の意味らしい。であれば、“あきらめ方”には2種類あることになる。否定的で後ろ向きなものと、前向きで肯定的なものだ。バイアスと折り合いをつけ、諦めも前向きなものにすれば、人はまた違う道を見出せるのだろう。 諦めの悪さの原点を、1998年の夏の甲子園、PL学園との試合の経験から「最後まであきらめなければ報われる。勝てる。喜べると」と話した松坂選手。引退試合後、西武の仲間たちの手で胴上げされた松坂選手は、両手を大きく広げ、これ以上ないほどの最高の笑顔を見せ宙に舞っていた。
2021.10.22 07:00
NEWSポストセブン
引退の松坂大輔、横浜高の恩師が語っていた「引き際の大切さ」
引退の松坂大輔、横浜高の恩師が語っていた「引き際の大切さ」
「平成の怪物」として一時代を築いた西武・松坂大輔(40)が野球人生に幕を下ろすことが報じられた。古巣・西武に14年ぶりに復帰した昨季は1軍登板がなく、今季は2軍戦の登板もないまま、引退を決断した松坂。そんな松坂を引退直前まで気にかけていたのが、横浜高校でコーチ、野球部部長を長年務め、「育ての親」と呼ばれる小倉清一郎氏だった。つい最近、筆者のインタビューにこう語っていた。「そりゃ心配だよ……。電話で最近話したのは2月か3月ごろかな。『今あるところで秘密の治療をしています』って言っていて。首を傷めているみたいで、思うようにいかないんだろうね。『どうなんだよ』って聞いても『(治療を)やってるところだからわかりません』って。オレにも状態はわからないよ」 小倉氏と松坂の出会いは今から28年前だった。江戸川南リトルシニアに所属していた中3の松井光介(現・ヤクルト打撃投手)に注目して球場に足繁く通っていた時、2学年下の松坂の姿に目を惹かれたという。「ずば抜けて凄かったわけじゃない。コントロールも悪かったし、身長も165センチぐらいで高くはなかった。だけど、こいつはひょっとしたら凄い投手になるという予感がしたんだ。身長に比べて背筋は強そうだったし、2塁ゴロや遊撃ゴロを全部捕りにいく姿勢にも目を惹かれた。実際、中学3年間で球はどんどん速くなったよ。最終的に20~30校が興味を持ったんじゃないかな。でも、声を掛けただけの高校も少なくなかった。ストライクが入らないから」  中学時代の松坂は2年秋の関東大会で優勝、3年の夏の大会も優勝するなど頭角こそ現していたが、全国の強豪で知られる中本牧リトルシニアに大量失点を喫するなど、世代を代表する存在ではなかった。当時の江戸川リトルシニアは帝京高とつながりが深く、「松坂も帝京高に進学するだろう」と見られていたのも、他校が手を引いた理由かもしれない。  だが、小倉氏は松坂の可能性に賭けた。「ストライクはいずれ入るようになるから、どうってことない」と言いのけ、先に横浜高に進学が決まっていた中本牧リトルシニアの小池正晃(現・DeNA1軍外野守備走塁コーチ)、小山良男(現・中日スカウト)、常盤良太に対し、松坂を横浜高に誘うように伝えた。小池らにとってみれば、松坂はメッタ打ちにした投手だけに、その指令を不思議に感じただろう。小倉氏はその空気を察してこう言ったという。「もう少ししたら、おまえらが束になっても勝てないぞ」 横浜高に入学後した松坂だが、制球難がなかなか修正できない。渡辺元智監督が「投手に見切りをつけて打者にしよう」と提案したこともあった。だが、小倉氏は首を縦に振らなかった。「あの学年は大輔以外に投手がいなかったんだよ。長田秀一郎(現独立リーグ・武蔵投手コーチ)をスカウトしていたんだけど、『公立でやる』って言ってたから、手を引いたら鎌倉学園に行って。もう一人、目をつけていた加納大祐も鎌倉学園に行った。松坂を育てるしかなかったんだ」高校を出てすぐに活躍したから… 小倉氏が松坂に課した練習メニューは過酷だった。なかでもアメリカンノックは有名だ。ノックバットを持つ小倉氏の近くにいる松坂が70~80メートルの距離を走り、フライを背走して捕る。両翼のポール間を走って捕球する通常のアメリカンノックより難易度が高い。これを夏の炎天下にマンツーマンで4時間も続けたという。松坂は200本近く走っていたことになる。流石の松坂も「なんで僕をいじめるんですか」と訴えてきたが、「おまえが好きだからだよ」と返した。「練習をクリアして、『焼肉食わせてやるよ』って言ったこともあったな。特上カルビ10人前食べやがって。3万円かかったよ」と笑う。「大輔はずーっと成長曲線だった。制球難は左の肩で壁を作って一気に右腕を振るようなフォームにしたらだいぶまとまって。直球はもともと速かったけど、変化球も物凄く器用に投げていたね。カットボールなんか2~3球投げさせたら覚えていたよ。フィールディングも入った時は決して巧いわけではなかったけど反復練習だね。プロに入ったら投げることだけに集中させるためにクイック、牽制も徹底的に鍛えた」 1998年、松坂の名前は日本中に知れ渡る。センバツ優勝投手としての重圧をものともせず、夏の甲子園では京都成章との決勝戦でノーヒットノーランを記録し、春夏連覇を達成。2年夏に神奈川県大会準決勝・横浜商戦で自身の暴投によりサヨナラ負けを喫したのが最後の黒星だった。2年秋から公式戦44連勝。社会現象になるほどの強さだった。  高校ナンバー1投手として進路が注目された松坂はドラフトで西武、横浜(現DeNA)、日本ハムが競合し、当たりくじを引いた西武に入団する。高卒1年目の1999年に16勝5敗、防御率2.60と圧倒的な成績を残し、最多勝、ゴールデングラブ賞、高卒新人で史上初のベストナインを受賞。2000年に14勝、2001年に15勝で3年連続最多勝を飾り、球界を代表する投手に上り詰める。だが、小倉氏は意外な言葉を口にする。「1年目の成績に驚きはなかったよ。あれぐらいはやると思った。結果論になるかもしれないけど、あいつは3年目ぐらいから(1軍で)出ていたら、もっと長く活躍できたかもしれない。高校を出てすぐに活躍したからプロの世界をナメちゃった。1番の弱点は体のケアをしなかったこと。何度も言ったが、『僕は大丈夫です』と。あいつを慢心させるのが早かったかもしれない」 だが、首脳陣からすれば、1軍ですぐに使いたいと考えるのはやむを得ないだろう。常時150キロを超える直球とキレ味鋭い高速スライダーを軸に、チェンジアップ、カーブ、フォークの精度も高い。18歳の時点で完成されていた投手だった。小倉氏は野球センスが抜群なことに加え、「頭がいい子だった」と分析する。「(高校時代に)データを渡すと、あえてど真ん中の直球を見逃して、相手投手の決め球をホームランにしていた。投手心理に立って、相手に一番ダメージを与えるやり方を知っているんだよ。打者でもプロで十分に大成できたんじゃないかな。三塁をやらせたら、同級生の村田修一(現・巨人1軍野手総合コーチ)といい勝負ができたと思う」メジャーで引退するべきだと思った 松坂がプロ野球という枠を超え、多くの人の心をつかんだのは素朴な人柄によるところも大きかった。スーパースターになっても態度が横柄になることはなく、お世話になった人への義理を重んじ、友人を大切にする。「性格だろうね。みんなが大輔に集まってくる。高校の時も補欠やベンチに入れなかった子たちと仲が良かった」と話す。 1980年生まれの代を「松坂世代」と形容する言葉が生まれたように、球界の中心だった。西武時代の1999~2006年までの8年間で計108勝をマーク。2003、2004年と2年連続最優秀防御率を獲得し、最多奪三振のタイトルも4度受賞している。シーズントップの完投数をマークしたシーズンが4度という数字が証明するように、馬力があった。2006年は第1回WBCで大会最多となる3勝、防御率1.38をマーク。世界一に導き、大会の最優秀選手(MVP)に選ばれた。さらに、6月16日の横浜戦で、ドラフト制度導入後最速の191試合登板で100勝を達成する。全盛期は当分続く──。誰もがそう思ったが、小倉氏はこの時から松坂の「異変」に気づいていた。「肘が下がって投球フォームがおかしくなっている。やばいな」 嫌な予感は的中する。メジャー移籍1年目の2007年にレッドソックスで15勝、2008年に18勝を挙げ、2009年には第2回WBCで3勝を挙げて2大会連続MVPに輝くが、この時に股関節を痛めてパフォーマンスが落ちていく。以後、毎年のように度重なる故障に悩まされ、2011年に右肘の張りを訴えてトミージョン手術を受ける。以降のメジャー6年間で積み重ねた白星はわずか23勝。「メジャーに移籍して4年目ぐらいから投げ方が酷くなった。大輔は股関節が硬いからメジャーのマウンドが合わないんだよ。肘がさらに下がってきて、昔と比べると全く違うフォームだった。(2015年に)ソフトバンクに戻ってきた時も2~3勝すればいいかなと。ファーム施設で会ったりしたよ。電話でも話したけど、うん……」 当時を振り返ると表情が曇り、口が重くなる。日本球界に9年ぶりに復帰した「平成の怪物」に野球ファンに大きな期待を寄せていたが、小倉氏は教え子に待ち受けるいばらの道が見えていた。 2015年のシーズン中に右肩関節唇および腱板クリーニング術、ベネット骨棘切除術、後方関節包解離術を受けるなど、3年間でわずか1試合の登板に終わり、ソフトバンクを退団。テスト入団した中日で2018年に6勝4敗、防御率3.74でカムバック賞を受賞したが、その輝きが続かない。2019年は右肩の故障でわずか2試合の登板に終わり退団。昨年、古巣・西武に14年ぶりに復帰したが1軍登板はない。 期待を裏切られたファンからはネット上で「もう限界だ」、「引退したほうがいい」など辛らつな声が飛んだ。それでも松坂を一番近くで見てきた小倉氏はフォームの修正を再三指摘してきた。「左足を上げるときに左肩を入れ過ぎるから、どうしても反動で体の開きが早くなり、右肘が下がる。この投げ方だと腕が横振りになるから変化球が抜けるし、ムダな動きも多いからケガをしやすくなる。何度も言ってきたよ。でも、大輔は『わかっていても、できないんです』と言うんだ。(理由は)体の状態なんだろうな」 上半身の力に頼った投球フォームになり、下半身のパワーを上半身に伝えた力強い球が見られなくなった。 そして決断のときがやってきた。小倉氏は引退報道の直前、奇しくもこう語っていた。「オレはメジャーで引退するべきだと思ったんだ。でも大輔には故障で終わりたくないという思いがあるんだろうね。あきらめきれないんだよ。オレにも2つの思いがある。『よく頑張った。お疲れさま』という気持ちと、『もうちょい頑張って最後に1、2勝してほしい』とね。ただ、この状況で(国内の)独立リーグや台湾は絶対にやっちゃいかん、それは言いたいね。“松坂大輔”っていう看板がある。頑張るだけ頑張って……引き際が大事と言うしかないよね」 関係者に「これ以上、チームに迷惑をかけることはできない」と話したという松坂。恩師の言葉に応えるように、ユニフォームを脱ぐことになった。取材/文 平尾類(フリーライター)
2021.07.07 07:00
NEWSポストセブン
かつてはプロ野球選手と女子アナの結婚が相次いでいたが…(2004年には松坂大輔と柴田倫世アナが結婚。時事通信フォト)
プロ野球選手と女子アナ 交際しても結婚にまで至らなくなった理由
 加藤綾子アナと「一般男性」の結婚発表が大きな話題になる中、6月13日にフジテレビ・久慈暁子アナとヤクルト・原樹理の交際終了が明らかになった。日刊スポーツが報じている。これらの件は、女子アナの結婚相手に変化が起こっていることを表しているのかもしれない。 かつて、女子アナといえばプロ野球選手と結婚するケースが目立った。1999年にオリックスのイチローとTBSを退社したばかりの福島弓子アナ、2004年に西武の松坂大輔と日本テレビの柴田倫世アナがゴールインしている。平成を代表する選手が女子アナを射止めたため、その印象はより大きくなった。芸能記者が話す。「1988年にフジテレビの中井美穂アナが『プロ野球ニュース』のキャスターを務めたことを皮切りに、女子アナが現場取材に行くようになったことで、出会いの機会が増えたことは大きいと思います。 また、1993年に野球界にFA制度が導入されたことも、影響しているかもしれません。選手の年俸が大幅に上がるようになりましたし、メジャーリーグを目指すような選手にとっては、語学が堪能な配偶者がいれば心強い。ヤクルトの石井一久と木佐彩子アナ、西武の松坂と柴田倫世アナのように、海外在住経験のあるアナウンサーと結ばれる選手も目立ちました」(以下同) 2000年前後は毎年のようにビッグカップルが誕生し、1年に複数組が結ばれていたこともあった。しかし、2017年1月にヤクルトの杉浦稔大とテレビ東京の紺野あさ美アナが婚姻届を出して以降、在京局に限れば「プロ野球選手と女子アナ」カップルのゴールインはない(いずれも、肩書きは当時)。「地上波のスポーツニュースでプロ野球を取り上げる時間がかなり短くなっており、女子アナが取材現場に行く機会が少なくなっていますからね。単純に出会う確率が減少している。西武の源田壮亮がCS番組『プロ野球ニュース』(フジテレビONE)のキャスターを務めていた元乃木坂46の衛藤美彩と結婚したように、現場に出向けばカップル誕生の可能性は高くなるとは思いますが」 結婚は減少しているが、近年も交際報道はある。2017年8月にはヤクルト小川泰弘とフジテレビ三上真奈アナ、2019年5月にはヤクルトの原樹里とフジテレビの久慈暁子アナの交際が報じられたが、いずれも結婚には至らず交際終了となったようだ。かつては、カトパンも西武時代の片岡治大と噂になったり、ダルビッシュ有とのデートが報道されたりしたこともあった。なぜ、プロ野球選手と女子アナは交際しても結婚まで至らないケースが増えているのか。「かつては取材を通じて知り合っていたので、毎日のように相手の仕事ぶりを間近で見ていたから、お互いの職業の大変さを理解しやすかった。しかし、今は現場に行く女子アナが減っていますから、相手の仕事への理解度はどうしても下がるでしょうし、時間もすれ違いになる。それらが破局の原因になるのでは」 もう1つ考えられるのは、“覚悟”の違いだという。「本来、取材者のアナウンサーと被取材者の選手は、適切な距離を保たなければならない。職業倫理的には両者が付き合うなんてご法度なわけです。最近はそんな風潮が薄れてきていますが、1990年代や2000年代の頃は今と比べたら、随分とありました。だから、安易な気持ちでは交際できなかった。『付き合ったら結婚するしかない』と覚悟を持って交際していたのではないでしょうか。取材現場で知り合わなければ、そうはならなかったと思います」 プロ野球選手と女子アナの結婚は今後、減少していくのか。
2021.06.14 16:00
NEWSポストセブン
聖カタリナ学園の越智良平監督
聖カタリナ学園 「松坂世代」の越智監督は和田・鳥谷らプロも一目置く闘将
 2年ぶりに熱戦が繰り広げられている第93回選抜高校野球。春夏通じて初めて甲子園の土を踏むのは、離島からの出場で注目を集めた大崎(長崎)を筆頭に、21世紀枠の4校を含めた計8校。その中の一校、聖カタリナ学園(愛媛)を率いる“松坂世代”の監督は、知る人ぞ知る闘将だった。『松坂世代、それから』などの著書があるスポーツライターの矢崎良一氏がレポートする。 * * * センバツ甲子園大会5日目──。優勝候補にも挙げられている東海大管生(東京)と対戦するのが、初出場の聖カタリナ学園だ。1925年開校の名門女子校だったが、2016年に男女共学化。これに伴い創部された新興野球部が、わずか5年にして甲子園出場を果たした。 この聖カタリナを率いるのが越智良平監督。1980年生まれ。野球界で言うところの“松坂世代”になる。この世代も40歳となり、高校野球の監督としては若手から中堅どころに差し掛かったあたりか。今大会にも出場している敦賀気比(福井)の東哲平監督が、2015年センバツを制覇し、この世代初の甲子園優勝監督となっている。 とはいえ、今大会出場校の中でも、明徳義塾(高知)を率いる甲子園通算51勝の馬淵史郎監督や、春夏7度の優勝を誇る大阪桐蔭・西谷浩一監督、プロ野球経験者の常総学院(茨城)・島田直也監督のように、高校野球ファンなら誰もが顔と名前が一致するような知名度はまだない。「自分の名前云々ではなくチームとして、いつかはそういうところまで行きたいという気持ちはあります。でも今はまだ、(明徳の)馬淵監督なんかに向かっていってはガツンと跳ね返されて、それでもなんとか食い下がって…とやっているうちに少しでも力を付けて、というような段階ですね」 越智はそんな素直な思いを口にする。それでも、そんな無名の監督の戦いぶりを注目し応援する人が全国に数多くいる。昨秋、四国大会で準優勝しセンバツ出場を確実にした時には「あの越智が甲子園に出るのか」と多くの野球関係者が喜んだという。それは、越智がこれまでの野球人生の中で築いてきた人脈の広さに他ならない。 聖カタリナの部員名簿を見ると、地元愛媛の出身者だけでなく、関西や、遠く神奈川からの越境入学者もいる。まだ甲子園未出場の新興チームとしては珍しいだろう。これは、越智の高校時代のチームメイトが神奈川の硬式チームの監督をしていることから、「越智に預ければ間違いない」と送り出してくれているのだという。 それほどの人望を集める越智良平とは、どんな人物なのだろう?“松坂フィーバー”を目の当たりにした宇和島東時代 宇和島東の遊撃手として2年生の春夏、3年夏と3度の甲子園に出場した越智。上甲正典監督(故人)に率いられた宇和島東は「牛鬼打線」と呼ばれる強力打線が売り物で、越智たちの代も2年秋の四国大会で対戦した高知商のエース藤川球児(元・阪神)を打ち崩し10―2で圧勝している。 のちに藤川は、「投球の癖で球種がバレていた」と述懐しているが、それでも高校生離れした球威を持つ藤川のボールをしっかり打ち返せるのは、宇和島東の打力の高さに他ならない。165cmそこそこと上背のない越智も、「ホームランを打て。(打球が)飛ばないヤツは使わん」という上甲監督の教えを受け、力強いスイングを身につけていった。“松坂大輔フィーバー”に湧いた3年夏の甲子園では、3回戦で常総学院に敗退。松坂との接点はなかったが、横浜高校の初戦を球場に行きバックネット裏から観戦した。 初回、松坂が投じた先頭打者への初球。打者が見送ったストレートは低く構えたミットに吸い込まれた。主審がストライクとコール。宇和島東の選手たちは「あのコースは打てない」と言い合った。しかし、ホテルに帰ってビデオで見ると、低めギリギリと思っていたその球は、なんとド真ん中のストレートだった。見る角度の問題はあるが、想像を超えるボールのキレとノビ。「松坂の球速は、スピードガンで150km前後。今なら高校生でもそれくらい出せる子はいるし、プロならもっと上の数字を出している投手が何人もいる。でも、あの時の松坂のボールには数字だけじゃない凄さがありました。何だったのかな? 一度、試合で打席に立って体感してみたかったなぁ」 越智はしみじみとそう言う。「控えの主将」に恐怖を感じた早大時代 甲子園3度出場の実績を糧に早大に進学したが、大学では挫折を経験する。 1年生の頃からベンチ入りし、代打や途中出場で試合出場もしていた越智はレギュラーの有力候補だった。しかし越智が入学した翌年から早大はアスリート推薦の制度が整備され、全国的に名前の売れた有力選手が続々と入学してくるようになった。 越智と同じショートには、鳥谷敬(現ロッテ)、センバツ優勝の沖縄尚学の主将だった比嘉寿光(現・広島球団職員)が入り、彼らは入学早々に三遊間でレギュラーとして起用された。その翌年には田中浩康(現DeNA二軍守備コーチ)が入学し、セカンドのポジションも埋まった。越智はレギュラーからはじき出される。 シートノックではレギュラーの彼らの後ろに付き、2番手3番手で打球を受ける。しかし、控えという引け目はなく、鳥谷や比嘉に「しっかりやれ」と檄を飛ばした。「常に(ポジションを)獲ってやろうと思っていましたから」と越智は言う。 そんな姿を見ていた野村徹監督(当時)の強い推薦で、4年生になると主将に任命される。他校が松坂世代のスター選手を主将に据える中、「控えの主将」だった。監督の指名に「はじめは恐怖しかなかった」と越智は言う。「試合に出てプレーで引っ張ることはできない。もし勝てなかったら、間違いなく『キャプテンが控えだから』と言われる。そんな仕事、俺にやれるか? と葛藤がありました」 主将に就任した越智は、100人を超える部員を見事にまとめ上げる。早大はエース和田毅(現ソフトバンク)が、江川卓(元・巨人)の持つ六大学通算奪三振記録を塗り替える大活躍。春秋のリーグで連覇を果たす。 ドラフトの目玉として試合のたびにメディアの取材が殺到する和田がチーム内で浮くことはなかったし、鳥谷、青木宣親(現ヤクルト)田中、武内晋一(元ヤクルト)と力のある下級生たちがレギュラーの多くを占めても不満を持つ4年生はいなかったという。 秋のリーグ戦。シーズン最後の早慶戦は、1回戦で早大の優勝が決まった。消化試合となった2回戦の前夜、野村監督から「これまで出場機会がなかった4年生を試合に出したい」という提案を受ける。しかし越智を中心とした4年生のスタッフは「それなら経験のために下級生を起用してほしい。そのほうがチームのためになる」と逆に進言し、翌日の試合はそうなった。「指導者への道」を決断させた鳥谷の存在 卒業後の進路は、社会人野球でプレーを続けたいという願望があった。その思いを断ち切らせたのは、一緒に野球をした“凄い”選手たちだった。中でも鳥谷は、野手としては別格だった。 各シーズンの公式戦が終わると、大学JAPANのメンバーだった鳥谷は合宿や海外遠征などでチームを離れることが多かった。その時には越智が代わりにショートに入り、1番青木、2番越智という打順が組まれた。 意地もあったのか、そこで越智はよく打った。「ポジションを獲ってやる」と手応えも感じていた。鳥谷がチームに戻ると、「越智さん、よく打ってるらしいですね」と声を掛けてきた。その表情から「絶対に負けない」という思いが伝わってきた。そして試合に出場しはじめた鳥谷は、越智を上回る勢いで打ちまくり、シーズンが始まると当たり前のようにショートを守っていた。越智は言う。「あのレベルになると、こっちがちょっとくらい頑張ったって勝てない。嫉妬とかはなかったです」 それが決断する決め手になった。「一緒に練習してきて、鳥谷がどんなレベルかはわかっています。自分とのレベルの差もわかる。鳥谷は間違いなくプロに行く選手。その鳥谷と勝負出来るレベルの選手が社会人に行く。そこに自分が行っても、果たして勝負になるのか……」 越智は、もう一つの夢であった指導者の道を目指すことを決める。体育科の教員免許を取得するために2年間、科目等履修生として大学に残ることになった。 生活費を稼ぐためにアルバイトも始めたが、それでも野球の練習がなくなった分、時間の余裕ができた。その時間を使って、自分の引き出しを増やすために、いろんな場所に足を運び、いろんな人と会って話を聞いた。 たとえば当時、毎年のように強力打線で甲子園を席巻していた智辯和歌山。甲子園通算最多勝利の記録を持つ高嶋仁監督(現・名誉監督)の指導を実際に見てみたかった。宿泊費を節約するために自動車で和歌山に向かい、1か月間、車中に何日も寝泊まりした。 日本の高校野球界で最初にメンタルトレーニングを取り入れたとされる浪速高校の小林敬一良監督(当時)の元に足を運んだこともある。 練習を見て、監督の話を聞くだけでなく、帰宅途中に学校近くの食堂に寄る生徒たちと同じ席に座り、本音で会話をしたこともある。そうした時間を過ごしているうちに、自身の経験の中で身体に染みついた「野球とはこういうものだ」という固定観念が次第になくなっていった。「これまで自分が所属したチーム、宇和島東にしても早大にしても、力のある選手が集まってきて、厳しい規律のあるチームでした。でも、真逆のスタイルのチームもある。いわゆる“管理野球”に対して“自主性野球”みたいな表現がよく使われるのだけど、どちらが正しいということではなく、どちらも勝つための方法論なのだと思いましたね」初監督業は石川県屈指の公立進学校だった 2年後の2005年、知人に紹介された石川県の金沢市立工業高校で外部コーチとして採用される。 野球部の後援者が経営する会社に午前中勤務し、午後から学校で練習を手伝う毎日。石川はそれまで縁のない土地だったが、高校野球の指導者になれるなら日本中どこに行ってもいいと思っていた。これを機に石川に根を下ろす。 その年、石川県の教員採用試験に合格。小松商業で教壇に立ち、野球部長となる。そして2年後、人事異動で小松高校に赴任。ここで初めて監督の職に就く。 小松高校は県内屈指の進学校で、なおかつ公立校。強くするために有望な中学生をスカウトしたくても、ままならない。「勉強が出来る子がいたら、ぜひ」と中学を回っても、指導者に相手にしてもらえなかった。 また、勉強優先のため練習時間の制約という、選手としても指導者としても初めての経験もした。「年中無休で練習するのが当たり前の環境で育ってきた人間なので、週に一度練習休みを入れることも最初は不安でした。でも、そうすることで逆にパフォーマンスが上がることに気付かされました」と振り返る。 強豪校や、これまで交際がなかったチームでも、連絡すれば、相手校の監督が「越智君の頼みなら」と快く受けてくれた。だから、練習試合の相手には困ることはなかった。胸を貸してくれた監督たちには今も感謝の気持ちがある。星稜、遊学館といった全国レベルの強豪校の壁に跳ね返される中で力をつけ、ようやく甲子園が狙えるようなチームができつつあった就任8年目の年、思わぬ誘いを受ける。聖カタリナ初代監督就任も「行き過ぎた指導」で謹慎 地元・愛媛県の女子校である聖カタリナ高校が男女共学となることが決まり、硬式野球部を創部することになった。初代監督への就任依頼だった。 さすがに即答はできなかった。すでに妻子がいる。現在教えている生徒たちのこともある。それでも「いつか公立高校の監督として結果を残し、私学の強豪からオファーが来るような監督になりたい」という目標があった。 それは2014年に他界していた恩師・上甲監督の歩んだ道でもあった。宇和島東で実績を残した上甲は、私学の済美高校の監督として招かれ、ここでも日本一を勝ち取っている。済美も女子校を男女共学化した際の初代監督だった。 悩み抜いた末に、越智は愛媛に行くことを決心する。 1年目、「せめて野球ができる人数が集まってくれたらいいのだが」と危惧していた部員は、なんと36名が入部。この一期生たちで臨んだ最初の夏の愛媛県大会で、いきなりベスト8に進出する。オール1年生での快挙。「“まさかまさか”と言いながらも、“行けるんだったら行っちゃえ”と思ってました。さすがに甘くはなかったですね」と笑う。 彼らが3年生になった2018年の夏には本気で甲子園を狙ったが、3回戦で敗退。その秋、二期生の代のチームが四国大会に出場を果たすが、初戦で明徳義塾に惜敗。創部3年で驚異的な成長スピードだが、県内では「まだ甲子園に行けないのか」と言われることもよくあったという。 愛媛は野球どころゆえにファンの目線が高い。そして恩師の上甲が済美で成し遂げた、創部2年足らずで甲子園に初出場、初優勝を果たした記録がある。「普通ならありえない記録なんですが、愛媛県ではそれが標準になってしまいました」と越智は苦笑する。 だがイケイケだったチームに、思わぬ形でストップが掛かる。2019年1月、越智ら指導陣の「行き過ぎた指導」を理由に、チームは活動を自粛。越智は謹慎となった。 越智の高校時代、宇和島東は上甲監督が選手を猛練習で追い込むことで強いチームを作ってきた。練習試合で負けたら日付が変わるまでグラウンドを走らされたこともある。ノックの時には監督と選手が怒鳴り合い、ケンカ腰でやりあった。それでも、夜中まで練習した後、監督に連れられて行った屋台のラーメンの味は今も忘れられない。 だが、今の時代、それはもう通用しない。もちろん越智が上甲のやり方をそのまま模倣したわけではないが、根底には昔ながらの「厳しさ」があった。そうした指導法を、もう一度考え直すための時間でもあった。 その後、2019年9月に監督復帰。そして5期生となる今年のチームで、秋の愛媛県大会、四国大会を勝ち抜き、ついに初の甲子園を掴んだ。鮮やかな「赤」のユニフォームに込めた想い 聖カタリナのユニフォームは、高校野球では珍しい鮮やかな赤を基調にしている。これは越智自身が選んだものだ。 チームカラーにはこだわりがあった。交流のあった春江工業(福井)の川村忠義監督から、「色は大事やぞ」とアドバイスされたのがきっかけだった。2013年にセンバツに初出場した春江工は、ウインドブレーカーの眩いオレンジ色が強烈な印象を与えていた。越智は言う。「せっかくチームの立ち上げからやれるのだし、伝統がない分、ありきたりな雰囲気でやったらダメ。これからずっと続いていく、チームのイメージを表す色にしたかったんで」 当初は早稲田の臙脂(えんじ)を用いたかったが、地元の名門・松山商業とかぶってしまう。ならば、「相手を飲み込んでしまうような強い色」と赤を選んだ。そしてチームスタイルは、宇和島東と同じ打って勝つ攻撃野球。緻密な野球を展開するチームが多い四国で、経験がない分、1点取られたら3点取り返せばいいんだ、と。そうやって、相手を力でねじ伏せる野球で甲子園にやって来た。 初戦の相手は優勝候補にも挙げられている東海大菅生(東京)。それでも、聖カタリナには何かしでかしそうな雰囲気が漂う。 聖カタリナが四国大会を勝ち上がりセンバツ出場を決めた時、石川県の新聞がそれを伝えたという。石川には今も越智を応援する人は多い。宇和島東、早大時代のチームメイトたち。第二の故郷・石川の人々。みな、越智の監督としての甲子園初陣に注目している。 試合は3月24日。プロ野球は開幕直前だが、和田や鳥谷も、この日ばかりはこちらが気になって仕方がないはずだ。
2021.03.24 07:00
NEWSポストセブン
ノーヒットノーラン目前が3度もある西口文也もセリーグ所属だったら?(時事通信フォト)
西口文也、松坂大輔、杉浦忠ら セなら200勝達成できた?
 もし、あの選手がパ・リーグではなくセ・リーグにいたら……。日本シリーズでソフトバンクがセ・リーグ最強の巨人に2年連続で4連勝したのを見て、勝敗以上にセとパの力の差を感じた野球ファンも少なくないかもしれない。 振り返れば、強打者揃いのパ・リーグに在籍していたがために、名球会入りの条件である200勝を阻まれた投手も多いのではないか。 西武一筋21年、2015年に引退した西口文也(182勝)には常に「不運」の2文字がつきまとう。「西武で長くローテーションを張り、安定感は抜群だった。奪三振率も高かったが、被本塁打率が高くあと一歩で勝ちを逃すことが多かった。ノーヒットノーランを達成目前で4回も逃したことも、“一発に泣いた”ことをよく表わしている」(スポーツ紙記者) 相手がフルスイングのパの強打者でなかったら──そう思えてくる投手だ。 同じ西武には、“怪物”松坂大輔(40、170勝)もいる。もしパやメジャーではなく、全盛期にセで投げていたら……と考えるのは欲張りすぎか。 オリックスと阪神に所属したサウスポー・星野伸之(176勝)については議論が分かれる。「最速130キロのストレートと70キロ台のスローカーブで打者を翻弄した球史に残る“軟投派”です。セならもっと活躍したかもしれないが、初球からブンブン振ってくるパだから凡打を量産できたという見方もある。全盛期にセで投げる姿を見たかった」(同前) 阪急ブレーブスなどのエースとして歴代2位の350勝をあげた野球評論家・米田哲也氏の同世代にも、「もしセで投げていたら」という投手がいるという。「やはり南海の杉浦忠(187勝)ですね。西鉄の稲尾和久との投げ合いで、だいぶ勝ち星を損している気がします。あのアンダースローはセの打者もキリキリ舞いさせたでしょう。 同じくアンダースローでは、阪急でチームメイトだった足立光宏(187勝)も素晴らしかった。ストレートで押す山田久志と対照的に、投げる球全てが変化した。とくにシンカーは絶品です。日本シリーズ男と呼ばれてV9時代の巨人に立ちはだかったことを考えても、セならもっと記録を残したのではないか」 名球会には「通算250セーブ」という条件もある。過去に達成しているのは岩瀬仁紀(407セーブ)、佐々木主浩(381セーブ)、高津臣吾(313セーブ)と、いずれもセ出身者が並ぶが、パにも有力候補がいた。「ロッテやオリックスなどを渡り歩いた小林雅英(234セーブ)、ソフトバンクとオリックスに所属した馬原孝浩(182セーブ)はいずれも150キロ超の速球が武器で、セならもっと活躍したでしょう。特に小林は交流戦でMVPを獲ったこともある。小林と対戦した選手は『シュートも150キロ出ていた』と口を揃える。そんな投手、セにはいないでしょう」(前出・スポーツ紙記者) 名球会に入れるかどうかは、コーチや解説者の受け入れ先など、引退後の生活にも大きく関わってくる。もし彼らが名誉を手にしていれば、その後の人生は大きく変わっていたかもしれない。※週刊ポスト2020年12月25日号
2020.12.20 16:00
週刊ポスト
1998年、3球団から1位指名を受けて西武に入団した松坂大輔(時事通信フォト)
プロに進まなかった”松坂世代”3人が語る「あの夏の衝撃」
“松坂世代”の一人、阪神の藤川球児投手が今季限りでの引退を表明したが、実際に甲子園で怪物・松坂大輔と対峙した選手の多くはプロ入りが叶わず、挫折と栄光を胸にその後の人生を駆け抜けてきた。近著に『松坂世代、それから』(インプレス)があるスポーツライターの矢崎良一氏が、今年“不惑”の40歳を迎える松坂世代3人にスポットライトを当てる。 * * * 1998年夏の甲子園。怪物エース松坂大輔(現・西武)を擁する横浜高校は、前年秋の明治神宮大会、春のセンバツ大会を制し、公式戦無敗のまま春夏連覇という前人未踏の偉業に向かって突き進んでいた。「松坂だけのチーム」とタカを括っていた 星稜高校(石川)の五田祐也主将は、3回戦で横浜との対戦が決まると、取り囲む記者たちに「みんな横浜が勝つと思ってるんでしょ? 俺たち、負けませんよ」と強気に言い放った。地元石川県で「松井2世」と称されたこともある4番の五田を中心に、主力選手たちは附属の星稜中学時代、軟式野球で全国制覇も経験したツワモノ揃い。“無敵艦隊”横浜を相手にしても、「松坂だけのチームでしょ」とタカを括っていた。 しかし、試合前の横浜のシートノックをベンチから見た時点で、「これは勝てない」と圧倒される。「松坂はもちろん凄い。でも、松坂以外(の野手)が凄い」と唸った。 試合は初回、横浜の先頭打者・小池正晃(現・横浜DeNA二軍コーチ)のホームランで先制した横浜が5-0で快勝する。完封の松坂は決して本調子ではなかったが、走者を背負った時、ギアを上げるかのように本気のボールを投げ込み星稜の打者たちをねじ伏せた。 五田はこの敗戦で「野球観が変わった」と口にする。「俺たちは田舎の野球だった」と。それまでは、とにかくたくさん練習して、試合になったら気迫を前面に出していく。それが野球だと思っていた。横浜には、そこに技術や戦術といった要素が加わり、それが強さの裏づけとなっていた。甲子園の後、新聞や雑誌で横浜の記事を貪るように読みあさり、横浜の選手に会えば熱心に話を聞き、横浜の野球を研究する。 大学進学後、高校時代の故障が原因で現役を断念した五田は、一般企業に就職しサラリーマン生活を送っていたが、やがて地元に戻り、自らが育った星稜中学の野球部のコーチに就任する。監督をサポートしながら、五田が技術、戦術を叩き込んだチームは、全国制覇7度という中学軟式野球界屈指の強豪となっていく。教え子の多くは星稜高校に進み、甲子園に出場して活躍したり、プロ入りした者もいる。「今でも僕の中で“強いチーム”のモデルはあのときの横浜です。あんな凄いチームを作りたい。そして、あの試合前に感じた敗北感。ああいう悔しさを後輩たち、教え子たちには絶対に味あわせたくない.そう思って“野球”を教えています」 40歳を手前にして教員採用試験に合格し、今では母校で教壇にも立つ。“北陸の王者”星稜で、五田はいまや屋台骨のような存在となっている。「まだ高校生のときの松坂に勝てていない」 星稜を下した横浜は、準々決勝でPL学園(大阪)を延長17回の死闘の末に撃破し、準決勝で明徳義塾(高知)と対戦する。前日のPL戦で250球を投げていた松坂は先発を回避。しかし明徳の強力打線は横浜の2年生投手を攻略し、8回表を終わって6-0と大量リードを奪う。 関本大介はアルプススタンドの明徳応援席からチームメイトに声援を送りながら、「勝てるぞ!」と勝利を確信していた。高知大会では20人のベンチ入メンバーだったが、甲子園はベンチ入り人数が16人(当時)に減るため、スタンドの応援部隊に回っていた。 8回裏に横浜が4点を返し、それが奇跡への序曲となる。続く9回表、横浜の選手たちが守備に就くと、投手交代が告げられ、「ピッチャー、松坂君」の場内アナウンスと共に、凄まじい声援に送られ松坂が小走りでマウンドに向かう。「球場の空気が一変しました」と関本は振り返る。スタンドの四方八方から地鳴りのような歓声が沸き上がり、まだ明徳がリードしているにも関わらず、関本ら応援の選手たちまでが、「俺たち、ここにいちゃいけないんじゃないか……」と追い込まれた気持ちになっていく。 松坂登板で勢いづいた横浜を、もはや明徳は止めることが出来なかった。9回裏、横浜の怒濤の攻撃の前に逆転サヨナラ負け。のちに「奇跡の大逆転」と語り継がれる試合だ。 サヨナラヒットの打球がセンター前に落ちた瞬間、明徳の選手たちはグラウンドに崩れ落ち、しばらく立ち上がれなかった。スタンドの関本も「心が折れました。“ああぁー”と声が漏れて、力がすーっと抜けていったんです」と、その時のショックを表現する。 高校を卒業した関本は、子供の頃から憧れていたプロレスラーになる。明徳の馬淵史郎監督の口添えで大日本プロレスに入門し、「強くなりたければ、練習しなさい」という高校時代の教えのままに努力を続け、デビューから20年を経た今ではメインエベンターとして活躍している。 プロレスは対戦相手との勝負と共に、観客とも常に戦っている。歓声を浴びてリングに上がる日々の中、「まだまだですね。僕はまだ会場の雰囲気を一瞬にして変えることは出来ていないですから。高校生の松坂に勝てていないんです」と自分を諫める。 関本にとって、あの夏、マウンドに上がった瞬間に、甲子園の3万4000人の大観衆が“ミラクル”を確信し、球場全体の空気を変えてしまった本物の“スーパースター”松坂の姿は、今も大きな目標となっている。強力なビジネスツール「僕、松坂世代です」 連日のドラマチックな試合展開で日本中の注目が集まる中、決勝戦、横浜の前に最後に立ちはだかったのは京都成章高校だった。 1回表、京都成章の先頭打者、主将の澤井芳信は、松坂の不用意に投げたストレートを力強く叩き、サード左に痛烈なライナー性の打球を打つ。横浜のサード斉藤清憲がグラブに当てて弾き、ファーストに送球してアウト。もし、この打球があと30cm左に飛んでいたら、高校野球の歴史が変わっていた。 立ち上がり、連日の激闘の疲れからエアポケット状態にあった松坂は、この打球で目が覚めたかのように一気にアクセルを踏み込む。澤井の“幻のヒット”の後は、京都成章打線に1本のヒットも許さないまま試合は進んでいく。 澤井は5回頃から「まだノーヒットか」と意識していた。口には出さないが、他の選手たちも気づいていたはずだ。しかし、覚醒した怪物の前に、もはや為す術もなかった。3-0。松坂の59年ぶりとなる決勝戦ノーヒットノーランの快挙と共に、横浜高校は史上5校目となる甲子園春夏連覇を達成する。「あの試合を屈辱だと思ったことはない」と澤井は言い切る。センバツで2-18と大差の初戦敗退を喫し、「京都の恥」とまで言われたチームが、リベンジを目標に再び甲子園に乗り込み、一戦一戦、力をつけて勝ち取った準優勝。だから試合後の円陣で、チームメイトに「胸を張って帰ろう」と言葉を掛けた。 戦いを終えた時、「世界観が変わった」と言う。甲子園で勝ち進むのは小学校時代から名前を知られたエリート選手が揃う強豪校、名門校ばかり。その中で、地元の無名選手が集まった創部10年ほど(当時)の新鋭校が勝ち進み、松坂を筆頭とする「違う世界の人間」と思っていた有名選手の中に、「ひょっこり入り込んでしまった」と笑う。入り込んだことで、「俺たちも、そこにいていいんだ」と思えた。 そして、各打者が松坂の前に三振の山を築く中で、澤井だけが、打てないまでも三振はしなかった。「上に進んで高いレベルの野球に揉まれれば」と、卒業後、澤井はプロを目指し大学、社会人と野球を続ける。 夢は叶わず、26歳で現役を引退。しかし、新たな夢となったスポーツマネージメントのビジネスに転出し、今では自らの会社『スポーツバックス』を設立。日米で活躍した上原浩治(元巨人)や侍JAPANの4番打者・鈴木誠也(広島)、同じ松坂世代の平石洋介(ソフトバンク打撃兼野手総合コーチ)ら、多くのアスリートのマネージメントを行う敏腕社長だ。“松坂世代”は、今の澤井にとっては強力なビジネスツールでもある。「野球をやっていなかった人でも、『僕、松坂世代です』と自己紹介することがあると思うんです」と澤井は言う。他にそんな学年はなかなかない。実際、仕事現場で人から「この人は甲子園の決勝戦で松坂投手と戦った……」と紹介されると、「あぁ、あの時の」と反応が返ってくる。 あの夏から22年が過ぎた。「現役時代は、プロで活躍している選手ははるか遠いところにいる感覚でしたが、今は引退して第2の人生を始めた人も多い。一方、ビジネスの世界では僕らの世代はいよいよ脂が乗ってくる時期。いつか一緒に仕事が出来たら楽しいだろうなぁ」 澤井はかつてのライバルたちと、セカンドステージでの勝負の日を楽しみにしている。●やざき・りょういち/1966年山梨県生まれ。出版社勤務を経てスポーツライターに。細かなリサーチと“現場主義”でこれまで数多くのスポーツノンフィクション作品を発表。著書に『元・巨人』(ザ・マサダ)、『松坂世代』(河出書房新社)、『遊撃手論』(PHP研究所)、『PL学園最強世代 あるキャッチャーの人生を追って』(講談社)、近著に『松坂世代、それから』(インプレス)がある。
2020.09.13 07:00
NEWSポストセブン
藤川球児引退と「松坂世代の名球会ゼロ」問題 江本氏が解説
藤川球児引退と「松坂世代の名球会ゼロ」問題 江本氏が解説
「ボールが浮き上がって見えた」「分かっていてもバットに当たらなかった」――並みいる好打者がそう口を揃えた“火の玉ストレート”で甲子園を沸かせた阪神・藤川球児(40)が引退を表明した。 日米通算245セーブを積み上げた藤川は、名球会入りの条件となる250セーブまであと5セーブに迫る。さらに、藤川を含む「松坂世代」で名球会入りを果たした選手が1人もいないため、野球ファンの間では藤川の250セーブ待望論が高まっている。阪神元投手コーチで通算350勝の名球会メンバー・米田哲也氏が語る。「達成させてやりたいが、今の藤川では3点差でも1イニングを任せるのは不安だね。藤川は低めのコントロールよりも、高めの抜け球で三振を取るタイプなので、球威がなくなると厳しい。消化試合でセーブを稼ぐのは本人もファンも納得しないでしょうから、自力でもぎ取るしかない」 コンディションが万全でない中、5セーブの壁はかなり高いとの指摘だ。 そうなれば、“松坂世代の名球会入り”は、日米通算170勝の松坂大輔本人に託される。しかし今季は首痛と右手のしびれのため、7月に頸椎の内視鏡手術を受け、「勝ち星どころか、一軍登板のメドすらたたない」(西武番記者)という状況。藤川の引退についても沈黙を貫いている。他にはソフトバンクの和田毅がいるが、現在135勝で達成の可能性は非常に低い。 元阪神で、藤川と同じ高知商業の33学年先輩にあたる江本孟紀氏はこう語る。「藤川も松坂も和田も、並外れた素材が集まる世代ですが、名球会に届かないのはメジャーに挑戦し始めた世代というのが大きいでしょうね。日本でちょっと活躍したら、キャリアのピークで海を渡り、藤川はメジャー3年間で2セーブしかできなかった。松坂はメジャーで56勝しましたが、日本に残っていたらもっと凄い記録を残していたのではないか」 藤川は松坂に「現役でやってほしい。復活してやるために」と言葉をかけたが、大記録達成の行方やいかに。※週刊ポスト2020年9月18・25日号
2020.09.07 16:00
週刊ポスト
無観客では存在価値が…?(時事通信フォト)
西武・松坂大輔の大誤算、無観客で客寄せパンダにできない!
 3か月遅れでついにプロ野球の2020年シーズンが幕を開ける。ルーキーイヤーから活躍を続け、「平成の怪物」と恐れられた松坂大輔(39)。14年ぶりに古巣・西武に復帰し、再起を図ろうとした矢先、出鼻をくじかれた。「開幕延期で最も影響を受けた選手の1人ではないか。春季キャンプ、オープン戦と順調に調整していて、開幕3戦目に先発予定でした。自粛期間にトレーニングしていたとはいえ、実戦から2か月以上離れると、若手と違って調整が厳しくなる」(スポーツ紙記者) 77日ぶりの実戦登板だった6月7日の練習試合ではその不安が的中。「1回無失点に抑えましたが、直球は最速137km止まりで、打球は全て芯で捉えられていた。試合後、辻発彦監督が二軍行きを明言した。西武で唯一“層が薄い”と言われる先発陣としても落第の判を押されただけでなく、同一カード6連戦が続き、枚数が必要な中継ぎでも戦力として見られていない。“客寄せ”として期待していた球団も無観客試合では“興行”にならないため、使う理由がない。順位が決まるまで一軍登板はないのではないか」(同前) 西武OBで野球評論家の山崎裕之氏は言う。「チームへの貢献は、コロナ前の春季キャンプでファンを増やしたことくらいというのが実情です。西武も松坂を戦力としてアテにするようでしたら先行きは暗い。投手が足りなくなって使うというのなら、勝ち負けを度外視し、“5イニング3点失点で抑えてくれれば儲けもの”ぐらいで考えるべきでしょう。“昔の名前で投げています”では厳しい1年になります」 すでに時は令和。平成の怪物は最後の輝きを取り戻せるか。※週刊ポスト2020年6月26日号
2020.06.17 07:00
週刊ポスト
落合博満監督(当時)はさまざまな采配を見せてきた(時事通信フォト)
開幕投手で相手チームを幻惑し続けた中日・落合監督
 6月19日、いよいよプロ野球が始まる。気になる開幕投手の顔ぶれは各チームの監督の公表によって、以下のように明らかになっている。 セ・リーグは、巨人・菅野智之(3年連続6回目)vs阪神・西勇輝(2年ぶり2回目)、ヤクルト・石川雅規(3年ぶり9回目)vs中日・大野雄大(3年ぶり3回目)、DeNA・今永昇太(2年連続2回目)vs広島:大瀬良大地(2年連続2回目)。パ・リーグは、楽天・則本昂大(2年ぶり6回目)vsオリックス:山岡泰輔(2年連続2回目)、西武・ザック・ニール(初)vs日本ハム・有原航平(3年ぶり2回目)、ソフトバンク・東浜巨(初)vsロッテ:石川歩(2年連続2回目)。 直前の怪我などがなければ、まずこの顔触れになりそうだ。現役で最も多く開幕投手を務めたのは、涌井秀章(西武→ロッテ→楽天)の9回。順当に行けば、ヤクルトの石川はトップに並ぶことになる。3位は、7回の岩隈久志(近鉄→楽天→メジャー→巨人)。4位タイは、6回の松坂大輔(西武→メジャー→ソフトバンク→中日→西武)、金子千尋(オリックス→日本ハム)になる。 歴代の開幕投手回数ベスト5を挙げると、1位タイは14回の金田正一(国鉄→巨人)、鈴木啓示(近鉄)、3位は13回の村田兆治(ロッテ)、4位は12回の山田久志(阪急)、5位は10回の東尾修(西武)となっている(記録は2リーグ分裂以降。以下同)。いずれも通算200勝以上の大投手だ。昨今はメジャーリーグへの移籍、3月にWBCが行われる事情もあり、金田や鈴木の14回を抜くのは困難かもしれない。 昭和の頃から開幕戦はエースに託すというイメージが強い。しかし、過去には奇策を打って出るチームもあった。最近では、2004年から中日で指揮を執った落合博満監督が3度も意外な手で相手を幻惑した。野球担当記者が話す。「最も有名なのは、就任1年目に3年間登板ゼロの川崎憲次郎を開幕投手に持ってきたことでしょう。当時の中日は山本昌、野口茂樹、川上憲伸というエース級が揃っており、誰も予想できなかった。チームメイトも、当日のロッカーで知って驚いたという逸話まであります。落合監督は正月には川崎の開幕投手を決めていたようですが、それが情報漏れしなかったことも見事です」(以下同) 川崎は2回途中5失点で降板したものの、打線が奮起し、広島のエース・黒田博樹を攻略。8対6で逆転勝ちを収めた。ルーキーや新外国人、メジャーから復帰した2003年のオリックス・吉井理人を除けば、前年登板なし投手の開幕先発は初めてだった。この奇策は他球団に落合采配を警戒させるのに十分なインパクトを与え、同年中日は5年ぶりのリーグ優勝を果たした。 翌年から2008年までの開幕投手はエースの川上憲伸と正攻法だった。その川上がアトランタ・ブレーブスへ移籍した2009年、落合監督は3年目の浅尾拓也を抜擢した。前年は全てリリーフでの登板で、先発は1年目の8月17日以来だった浅尾は8回1失点と期待に応え、チームは4対1で横浜を破った。「川上は去りましたが、吉見一起は前年に初の2桁勝利を挙げていました。先発にはチェンや中田賢一もいた。その中で、前年のセットアッパーである浅尾の起用は驚きました。浅尾は5月13日を最後にリリーフに回り、引退まで先発することはありませんでしたから、周囲には奇策に見えたでしょう」◆前年4勝以下の投手を3度開幕投手に選出 2011年には、前年4勝のネルソンに開幕を任せた。この年は春季キャンプでチェン、吉見、山本昌と投手陣に故障者が続出。誰が来るのか予想しづらい中、落合監督は開幕戦の出場選手登録に朝倉健太、岩田慎司、小笠原孝、中田賢一、ネルソン、山内壮馬というローテーション投手を全て入れた。通常、先発投手の登録は数名に絞り、リリーフや野手を補充するが、相手の横浜を幻惑する作戦を取ったのだ。開幕戦は敗れたものの、その年、中日は首位・ヤクルトとの最大10ゲーム差を逆転し、連覇を果たした。 落合監督は中日で指揮を執った2004年から8年間で、前年4勝以下の投手を3度も開幕に選んだことになる。同期間の12球団では、2008年のヤクルト・石川雅規(前年4勝)と阪神・安藤優也(前年2勝)の2人だけ。石川は前年不調に陥り、チームの最下位もあって勝ち星が伸びなかったが、2006年まで5年連続2桁勝利。安藤は前年故障で8試合の登板に終わっていたが、2005年から2年連続2桁勝利という実績があった。「落合監督は、その時々のベストを選択していく監督でした。浅尾を抜擢した2009年も、『普通に考えればそうなる。みんなキャンプ、オープン戦を見てないからな』と報道陣に話していた。つまり、“開幕戦はエースでなければならない”という固定観念を持たなかった。先入観に縛られる世間から見ると奇策のように映りますが、落合監督の中では当たり前のことなんです。 2007年、巨人とのクライマックスシリーズ初戦、レギュラーシーズンの後半戦0勝5敗だった左腕の小笠原孝を起用した時も、『奇襲でも何でもない。普通の選択』と答えています。この年の巨人は1番・高橋由伸を筆頭に、小笠原道大、李承燁、阿部慎之助と左の強打者が並んでいました」 試合中の采配はオーソドックスな印象だった落合監督だが、開幕戦での先発起用では相手を幻惑し、その試合のみならず、シーズンを通して主導権を握っていった。そして2010年、2011年と連覇した落合監督が解任された翌年、セ・リーグは予告先発制度が導入された。「予告先発はお互いにミーティングの時間も減りますし、正々堂々と戦うという大義名分もある。しかし、いかに相手の裏をかくかという心理戦は野球の醍醐味のひとつですし、そこからドラマも生まれる。最近は読み合いの風潮が薄れており、ソフトバンクのように強いチームが予想通りに日本一になる。野球は意外性のスポーツであり、想像しなかったことが起こるから面白いという面がある。今のプロ野球界では、なかなか奇策が打てませんね」 時代によってルールは変わる。これは仕方ないことかもしれないが、落合監督の作戦が今もファンの記憶に残っていることも忘れてはならない。
2020.06.16 16:00
NEWSポストセブン
大泉逸郎の「孫」が26歳に 反抗期経て今も2日に1回は電話
大泉逸郎の「孫」が26歳に 反抗期経て今も2日に1回は電話
 1970年代に大ブームになった『ノストラダムスの大予言』によれば世界が滅亡するはずの1999年、57歳の新人歌手・大泉逸郎の『孫』が発売、ヒットして翌年には大泉が紅白歌合戦に出場した。当時も現在も山形でさくらんぼ農家を営みながら、歌手活動を続ける大泉に、名曲『孫』誕生と、成長する孫への思いを聞いた。 * * * 山形でさくらんぼ農園をしながら、民謡歌手や結婚式の司会もして、趣味で歌も作っていたんですよ。平成6(1994)年、初孫の慎太郎が生まれた時に同じ集落の荒木良治さんに1日で詞を書いてもらって、私が曲をつけた。結婚式で歌ったら、欲しいと言う人がいたから、自分で吹き込んだカセットテープを配ったりしていた。 ところが、孫が1歳の時にウチの息子が急性骨髄性白血病で倒れた。無菌室で寝ている横で、孫がガラス越しに「パパ、パパ」と泣き叫んでさあ、涙が出たなあ。私の骨髄を移植して、なんとか助かった。失敗したら、『孫』はボツにしていたね。 平成8(1996)年に徳間ジャパンから8000枚自費出版したら、結構売れたんですよ。その2年後、地元のカラオケイベントで課題曲に選ばれて、そこからテイチクに話が持ち込まれ、次の年に57歳でデビュー。200万枚売れたの? 何枚とかあんまり関心ないんだよなあ(笑い)。何十曲も出したけど、俺はあくまで農家の人間だし、基本『孫』だから。 ステージに上がる時もお客さんに「あ、“孫”がきた!」と言われるし、歌っている途中もじいちゃん、ばあちゃんが舞台にきて、「これ、ウチの孫だ」と上げて寄越すんですよ(笑い)。ファンレターも「山形県 孫様」「宮城 孫を歌う歌手様」で届きますもん。郵便局にお礼に行ったら、「山形県のために、もう少し頑張れよ」と言われたね。ははっは。 孫には、反抗期もありましたよ。話し掛けても、ムスッとして返事しなかったりね。26歳の今は、2日に1回くらい電話を寄こしますよ。年金からお小遣いあげてるからな。はははっは。女房に「おまえなんぼやるの? じゃあ俺は少し高くする」と競ってる(笑い)。曾孫を見たいと言ったら、プレッシャーになるからね。まあ、著作権は死んでから70年続くから、孫の孫までお小遣いが届けばいいな。●おおいずみ・いつろう/1942年4月17日生まれ、山形県出身。1999年4月発売の『孫』は660枚から始まり、2年後に200万枚を突破した。現在も朝4時に起き、さくらんぼの手入れをしている。新曲『ありがてぇなあ』が6月10日発売。【1999年の出来事】石原慎太郎が都知事に就任/松坂大輔が16勝で新人王/犬型ロボット「アイボ」発売/「ダンス・ダンス・レボリューション」大ヒット/「チョコエッグ」ヒット/映画『鉄道員(ぽっぽや)』『アルマゲドン』『マトリックス』ヒット/「カリスマ」「ヤマンバ」「2000年問題」が流行語に。※週刊ポスト2020年6月12・19日号
2020.06.11 07:00
週刊ポスト
ロッテ佐々木朗希 短縮シーズンで「開幕一軍入り」が濃厚?
ロッテ佐々木朗希 短縮シーズンで「開幕一軍入り」が濃厚?
 開幕戦の日程が未だ定まらないプロ野球。実戦練習もままならず、選手は調整に苦心している。「ベテランでも調整が難しいのに、高卒ルーキーは尚更でしょう。最注目のロッテ・佐々木朗希(18)は3月にバッティングピッチャーをとして登板し158キロをマークしましたが、その後は寮内の練習施設でネットピッチングを行なって調整しているようです。当初は二軍で経験を積ませたうえで夏場に一軍にあげる計画とされていましたが、実戦登板ができないのでは経験の積みようがありませんからね」(スポーツ紙デスク) 短縮シーズンとなる場合、一軍選手の登録枠を29から40程度まで拡大する案も報じられている。そうなれば佐々木に有利に働くとの見方もある。 ソフトバンク、西武、楽天で投手コーチを務め、新人時代の松坂大輔(39)を教えた野球評論家の杉本正氏が語る。「開幕時期の発表後に紅白戦や他球団との練習試合が組まれれば、その期間に一軍レベルで登板できる可能性もある。二軍戦の何倍も経験になり、自信にもつながります。短縮シーズンでタイトな日程になるため、中継ぎや抑えも含めて登板機会が増えるので、開幕一軍の可能性も出てくる」 異例ずくめのルーキーイヤー、令和の怪物には吉と出るか凶と出るか。※週刊ポスト2020年5月8・15日号
2020.05.02 16:00
週刊ポスト
最年長の福留孝介は43歳に(阪神タイガース提供。時事通信フォト)
今や40代が11人に プロ野球選手の寿命が伸びた背景
 4月26日、日本プロ野球界最年長の阪神・福留孝介が43歳の誕生日を迎えた。今年終了時点での満年齢で福留に続くのは、42歳の中日・山井大介、41歳のヤクルト・五十嵐亮太、阪神・能見篤史、広島・石原慶幸、40歳のヤクルト・石川雅規、西武・松坂大輔、楽天・久保裕也、渡辺直人、ロッテ・細川亨、阪神・藤川球児の計11人が40代となる。 野球担当記者は次のように話す。「20年前くらいまでは30歳になればベテランと呼ばれていましたし、30代後半で不調になれば、すぐに『引退』という文字がスポーツ紙に踊った。最近は1年活躍しなくても、まだチャンスが与えられますし、随分と40歳前後の選手が生きやすい時代になったと感じます」(以下同) 昭和の名選手は30代後半になって1年成績が落ちると即引退するケースが多く、中には例年と変わらない成績を残していてもユニフォームを脱ぐこともあった。 巨人V9戦士を例に挙げてみよう。土井正三は36歳の1978年にレギュラーでダイヤモンドグラブ賞を獲得し、リーグ最多犠打を記録。打率も2割8分5厘と自身3番目の数字を残したにもかかわらず、球団の説得もあってコーチに転身した。高田繁も35歳の1980年、打撃は不調で1割台に落ち込んだが、リーグ最多犠打に輝くなど、まだまだチームに必要な存在だったが、身を引いた。 同じ年、40歳の王貞治も後半不調に陥り、打率は2割3分6厘まで下がったものの、ホームラン30本を放っており、来季も4番として期待されながらも、現役を退いた。 他チームの主力にも同じような選手はいた。1986年、同じく40歳の広島・山本浩二は4番として打率2割7分6厘、27本塁打、78打点でチームを優勝に導き、日本シリーズも全試合4番で出場しながら引退。1990年、40歳のロッテ・村田兆治はBクラスのチームで10勝を挙げながら、こだわり続けてきた先発完投ができなくなったため、現役生活にピリオドを打った。 2000年の球界最年長投手は39歳のダイエー・長冨浩志、野手は38歳の横浜・駒田徳広だった。駒田は6月に代打を送られ、試合中に帰宅し、首脳陣批判もしたため2軍落ち。9月に2000本安打を達成するも、球団から戦力外通告を受ける。所属チームを探したが、手を上げる球団がなく、引退した。長冨は中継ぎとして38試合に登板し、防御率2.00でダイエーの2連覇に貢献。現役続行となり、翌年も26試合に投げて1軍の戦力となった。41歳の翌々年、1軍登板なしで引退となった。 それが21世紀に入ると、30代後半に1年不調になっても引退せず、現役を続ける選手が増えた。2015年には、中日の山本昌が歴代最年長の50歳で登板して話題を呼んだ。「2000年代以降、複数年契約が当たり前になったことが大きな要因でしょう。その先駆けは落合博満です。45歳になる1998年までプレーしましたが、40歳になってからは巨人や日本ハムで複数年契約を結んでいた。昭和のような1年契約だったら、そこまで現役で居続けられたかはわかりません」 今年40代以上の選手のほとんどは、過去に複数年契約をした経歴を持っている。2013年から福留は阪神、2015年から山井は中日、能見は阪神、2014年から石原は広島、石川はヤクルト、松坂はソフトバンクと3年契約。2016年から五十嵐はソフトバンク、藤川は阪神、2015年から細川はソフトバンクと2年契約している。 また、こんな理由も考えられるという。「昭和の頃は『先発=完投』、『主力=全試合出場』が美学とされていたため、それができないなら引退すべきという風潮もありました。現代では、投手は先発、中継ぎ、抑えの役割がより明確になっていますし、野手もメジャーを倣って休養日を設けるようになりました。それに加え、科学的トレーニングも日進月歩しています。これらによって、選手寿命が延びた面は間違いなくあるでしょう。 阪神の能見は2年前から先発から中継ぎに転向して、新たな居場所を見つけています。昔ならこうは行かなかった。名選手を1年でも長く見られますし、ファンにとっても嬉しいことではないでしょうか」 その一方で、プロ野球界にも新型コロナウイルスの感染拡大の影響は及んでおり、開幕は不透明になっている。ベテランにとって、この時期にどう体力を維持するかが大きな課題だろう。試合がない今も、彼らの戦いは続いている。
2020.04.29 16:00
NEWSポストセブン
藤浪晋太郎、コロナ感染でパ・リーグ移籍にも現実味か?
藤浪晋太郎、コロナ感染でパ・リーグ移籍にも現実味か?
 新型コロナ感染が発覚して以降、女性記者との食事やタニマチとの合コンなど私生活が明らかになりファンからの批判も受けているのは阪神・藤浪晋太郎(25)だ。 かつては、大阪桐蔭のエースとして史上7校目の春夏連覇を達成、2012年のドラフトでは大谷翔平(25)を抑え、4球団が競合するなど、高い評価を受けてきた。「大リーグ挑戦で注目されていたのは大谷だったが、メジャーのスカウトの大半は藤浪の方が将来性は上という評価だった」(MLB関係者) その高評価に違わぬ活躍を見せた。1年目に新人特別賞を獲得。さらに、松坂大輔以来となる高卒1年目から3年連続2ケタ勝利をマークした。しかし、2016年から制球の乱れが目立つようになり、成績は急落していく。 近年の制球難は深刻で、右打者への抜け球を警戒し、対戦チームは左打者を並べる「藤浪シフト」を敷く始末。コーチやOBがいくらアドバイスしても改善の兆しも窺えない。「藤浪はああ見えて頑固な性格。2015年の春季キャンプに臨時コーチとして参加した江夏豊氏がキャッチボールの大切さを説いたのですが、藤浪だけアドバイスを聞かなかったと明かしています。能見篤史やメッセンジャーら先輩投手も、自己流の調整ばかりの藤浪に苦言を呈してきました」(前出・在阪スポーツ紙デスク) 昨年はついに初の勝ち星ゼロと、どん底まで落ちる。ライバルだった大谷の活躍について説明する必要はないだろう。メジャーも開幕が延期されているが、開幕日だった3月26日(日本時間27日)にMLBが公式サイトで公開したファンに向けた動画メッセージに大谷も出演。いまや世界の顔だ。「阪神には指導できるコーチもおらず、ファンや在阪スポーツ紙の存在が重圧でイップスになっているとも指摘されている。ここ3年、パの球団からは“うちなら再生できる”というトレードの話がきている。これまでは球団内でも藤浪の復活を期待する声が強かったが、今回の一件で話が進む可能性もある」(同前) 熱心なファンからも「ほとほと呆れ果てた」という声が聞こえる。「今年こそは、と思っていたのに何をしとんねん。ピッチングも私生活もコントロール不能なんて、シャレにもならんわ」(大阪在住、50代男性) それでも197cmの体格から放たれる最速160kmの剛速球は、阪神のみならず球界のエースたる能力を秘めているのはたしかだ。阪神ドラ1の先輩で、故障によるトレードという屈辱を経験したものの、再び阪神で「松井秀喜キラー」として復活した遠山昭治(奬志)氏はエールを送る。「どん底を経験して、自分を見つめ直したと思う。それをピッチングに生かせばいい。ちょっとしたことでは変われないだろうが、あれだけの素材なのだからやれますよ。今回の騒動で世間から批判を受けていますが、結果で雑音を吹き飛ばすシーズンにしてほしい」 それしか名誉挽回の方法はないが、果たして……。※週刊ポスト2020年4月17日号
2020.04.07 07:00
週刊ポスト

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