「追悼の辞」を読み上げた菅氏(写真/JMPA)
対照的に、聴衆の心を波立たせたのが「友人代表」の菅義偉・前首相の弔辞だった。
〈総理、あなたは一度、持病が悪くなって、総理の座をしりぞきました。そのことを負い目に思って、2度目の自民党総裁選出馬をずいぶんと迷っておられました。最後には、2人で銀座の焼き鳥屋に行き、私は一生懸命あなたを口説きました。それが使命だと思ったからです。3時間後にはようやく首をタテに振ってくれました。私はこのことを、菅義偉生涯最大の達成として、いつまでも誇らしく思うであろうと思います〉
菅氏はそんなエピソードを折り込み、最後に、安倍氏の執務机の上に置いてあったという『山県有朋』の伝記の読みかけのページの言葉をこう捧げた。
〈しるしをつけた箇所にあったのは、いみじくも、山県有朋が、長年の盟友、伊藤博文に先立たれ、故人を偲んで詠んだ歌でありました。総理、いま、この歌くらい、私自身の思いをよく詠んだ一首はありません。
かたりあひて 尽しゝ人は 先立ちぬ 今より後の 世をいかにせむ
かたりあひて 尽しゝ人は 先立ちぬ 今より後の 世をいかにせむ
深い哀しみと、寂しさを覚えます〉
心のこもった演説だった。喪主である安倍昭恵夫人が目を潤ませて聞いていたのが印象的だ。「友人代表」の前総理と、国葬の葬儀委員長である現職総理とは立場が違い、弔辞に求められる内容も違う。友人代表である菅氏の弔辞は故人への惜別の思いが率直に向けられていた。そういうものだろう。一方、国葬の責任者である岸田首相の弔辞は国民へのメッセージでもなければならない。そうした役割の違いがあるにしても、2つの弔辞が持つ言葉の力の違いは明らかだった。
池田勇人元首相から政敵・浅沼社会党委員長への「名追悼」
翻って過去を辿ると、総理大臣の名追悼演説として知られるのは、岸田首相の大先輩にあたる宏池会(現・岸田派)の創設者、池田勇人・首相(当時)が選挙の立会演説中に刺殺された「政敵」の浅沼稲次郎・社会党委員長に手向けた言葉だった。