ウソと誤解に満ちた「通説」を正す、作家の井沢元彦氏による週刊ポスト連載『逆説の日本史』。近現代編第九話「大日本帝国の確立V」、「国際連盟への道3 その1」をお届けする(第1356回)。
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桂太郎のライバルとも言うべき西園寺公望は首相を歴任し、最後の元老として一九四〇年まで生きた。一九四〇年は昭和十五年、日本紀元ではちょうど二六〇〇年に当たる年で、翌昭和十六年に大日本帝国は英米など連合国との開戦に踏み切り、四年後に滅亡した。その方向性はすでに昭和十五年には確立されていたと見るべきだが、こうした方向性、具体的に言えば「満洲国の建国」「軍による政治支配」「日独伊三国同盟の締結」に最後まで抵抗し、その反対つまり「中華民国との融和」「政党政治の確立」さらには「英米との協調」を図ろうとしたのが、西園寺公望なのである。
元老と言えば天皇の最高政治顧問である。その最大の役割は総理大臣が辞職などの理由で空席となったとき、次期総理を誰にすべきかを天皇の諮問に答える形で事実上推薦することだった。しかも、西園寺は「最後の元老」だった。ということは、大正から昭和前期まで元老は彼一人だったわけで、日露戦争前夜のように開戦派の元老山県有朋と非戦派の元老伊藤博文が対立するという状況では無かったのに、なぜ西園寺のめざした方向に大日本帝国は進まなかったのか?
おわかりだろう。一般的にはあまり知名度があるとは言えないが、このきわめて重要な問題を考究するのに西園寺公望という人物の分析は欠かせない、ということだ。まずは、元老とは何かというところから分析を始めたい。
現在の日本国憲法では、総理大臣の任命について第六条に「天皇は、国会の指名に基いて、内閣総理大臣を任命する。(以下略)」とあり、さらに第六十七条第一項で「内閣総理大臣は、国会議員の中から国会の議決で、これを指名する。この指名は、他のすべての案件に先だって、これを行う」と定められている。「国会議員」と言えば衆議院議員だけで無く参議院議員も含むが、同条第二項で「衆議院と参議院とが異なった指名の議決をした場合(中略)、衆議院の議決を国会の議決とする」と定められているため、実質的には衆議院における首班指名選挙で最多票を獲得した者が総理大臣に任命されることになっている。つまり、現行憲法においては「総理大臣の選び方」が明記されているわけだ。
しかし、大日本帝国憲法いわゆる明治憲法においては「選び方」どころか「内閣総理大臣」という役職名も記載されていなかった。憲法発布以後、いわゆる内閣制度は法律や慣例によって整備されてきたのである。行政府の長を内閣総理大臣と呼ぶこと自体その流れのなかで形成されたルールだが、その選び方については当初は天皇が任命し(明治憲法第十条に「天皇ハ行政各部ノ官制及文武官ノ俸給ヲ定メ及文武官ヲ任免ス〈以下略〉」とあるのに基づく)、選ばれた総理大臣が辞職するときに後継者を推薦する、という形を取っていた。
そのうちに、首相経験者が増えてきたので明治の中期あたりから、総理大臣が空席になると、まず天皇がそうしたベテラン政治家に次の総理として適当な人物を推薦するよう下問する。そうした少数のベテラン政治家(これが後に元老と呼ばれる)は協議して候補者を天皇に推薦する。この推薦のことを、とくに「奏薦」と呼んだ。それを受けて天皇は候補者を呼び出し、本人が受諾した場合(辞退することもできる)、総理大臣となる。これを一般には「候補者○○に組閣の大命が降下した」と表現した。つまり、そういう慣例ができた。言うまでも無く「元老」も明治憲法のなかで規定された制度では無い。
では、実際の元老とはどんな人々だったのかと言えば、伊藤博文、黒田清隆、山県有朋、松方正義、井上馨、西郷従道、大山巌であり、この連載でも何度も取り上げた錚々たるメンバーである。これに明治末期あたりから桂太郎、西園寺公望が加わった。メンバーをあらためて見ると、西園寺以外はすべて薩摩人か長州人である。いわゆる「お公家さん」出身の西園寺は、かなり異色と言える。前回、彼の経歴を簡単に紹介したが、ここであらためて首相になるまでの彼の人生を振り返ってみよう。