その後、渡辺氏はサハリン州の州都・ユジノサハリンスクに移送されて刑務所に収容されたが、そこには違法操業で拿捕された何人かの日本漁船員もいた。渡辺氏は、自分の行動が彼らから称賛されると思っていたが、逆に「迷惑している」と言われて意気消沈したという。
それでも渡辺氏は“渡航の目的”を貫いてみせた。2005年に筆者がインタビューした際には、当時の様子をこう明かしてくれた。
「サハリンでの待遇は悪くなかった。監獄に入れられてからも“北方領土を返せ”と言い続けた私に、むしろ監獄の職員たちは好意的な目を向けてくれたほどだった。『お前(渡辺氏)の行動は勇気がある。日本に帰ったら、お前は英雄になるんじゃないか』と褒められたりもした」
約半年が過ぎた12月、渡辺氏は日本人漁船員らとともに釈放されて日本に戻る。しかし「英雄」にはなれなかった。今度は「密出国」の容疑で釧路地検の取り調べを受ける羽目になったのだ。
渡辺氏は「北方領土に行くのは純然たる日本国内の移動だ。どこが密出国なのか」と強硬に反論したものの、地検は「拘束されてソ連本国(サハリン)に連行されてもやむを得ないことを知っていたうえで北方領土に入った。だから密出国だ」と判断し、渡辺氏を書類送検したのである。
この扱いに憤慨した渡辺氏は別の渡航計画を思いつく。「北東がダメなら、今度は南西の果てにある日本領土に自力で行ってやる」と考えたのである。
1980年、渡辺氏は与那国島から尖閣諸島の魚釣島まで、手漕ぎボートで32時間かけて渡航。上陸後は約1か月にわたって島で生活したのである(もっとも、この時は海上保安庁が「漁船で曳航されたもの」との情報を流したため、それほど話題にはならなかった)。
日本の「北東の果て」と「南西の果て」を舞台に一世一代のパフォーマンスを敢行した渡辺氏だが、1983年に沖縄県の護国神社で働き始めるとともにボクシングトレーナーとなり、指導者として実績を残した。今では沖縄のボクシング界では知らぬ者はいない「名伯楽」として知られている。北方領土返還の抗議は実らなかったが、自身の人生は軌道修正できたのかもしれない。
(文・写真/山本皓一 取材協力/欠端大林)