実際、彼の留学期間は約九年におよんだ。帰朝したのは一八八〇年で、彼は三十一歳になっていた。その年は明治十三年で、すでに廃藩置県(明治4)どころか西南戦争(明治10)も終わっていた。そんな長期留学というワガママが許されたのも、やはり公家の名門(清華家)の「お殿様」だったからだろう。明治天皇も「お手元金」つまりポケットマネーから留学費用を援助している。天皇は「御学友」でもあった西園寺をいつも気にかけていたようなのだ。
話を戻そう。たしかに留学期間は長かったが、この時間は決して無駄では無かった。この間、西園寺はさまざまな優れた人物と交わり学び、世界に通用する政治家としての基礎を固めたからである。
西園寺は、まずはエミール・アコラースという二十九歳の年上の法律学者の薫陶を受けた。アコラースは大学の教授では無く、諸外国からパリにフランスの法律を学ぼうとやって来た留学生にフランスの大学に入学できるだけの学力をつけさせるための私塾を開いていた。西園寺だけで無く、この塾には中江兆民も入塾しおおいに学んだという。
兆民、本名は篤介。土佐藩足軽の子として高知に生まれたが、若いころから頭角を現し、新政府から公費留学生としてフランスへ留学。後に新政府の富国強兵策を厳しく批判した『三酔人経綸問答』を著し、「東洋のルソー」と呼ばれた人物だ。西園寺より二歳年上だが留学は同じ年で、先に帰国した。それが普通で、やはり九年は長すぎるのだが、ここで二人は生涯の友となった。
「お手元金」に込められたメッセージ
生涯の友と言えば、もう一人いる。フランス人ジョルジュ・クレマンソーで、後に政治家そしてジャーナリストとして知らぬ者がいないほど有名な人物になる。西園寺より八歳年上のクレマンソーは当初医師となったが後に政治家を志し、共和派の一員として国会議員となった。パリ―コミューンには同情的で、政府とコミューンの仲を取り持とうと努めたが不調に終わり、議員も辞任した。この後アコラースの下で「充電」していたが、そのとき西園寺を知り親しい友人となった。二人は下宿を共にしたこともあったようだ。
そして二人はこの後ともに母国の首相となるわけだが、クレマンソーは時々の大統領から組閣を求められてもしばしばこれを拒んだ。権力志向では無かったのだ。その証拠に、あのドレフュス大尉の事件(『逆説の日本史 第27巻 明治終焉編』参照)が起こったときエミール・ゾラの政府弾劾文「我、告発す」を第一面に載せた日刊紙『オーロール』は、下野してジャーナリストとなっていたクレマンソーの経営する新聞だった。
数年を経て政界にカムバックすると、一九〇六年にクレマンソーは首相に就任し一九〇九年まで務めた。ただし、この間あまりに急進的な左派とは縁を切り、首相としては帝国主義路線を推進した。そして一九一七年、第一次世界大戦が勃発すると再び首相就任を要請され巧みな戦争指導でフランスを勝利に導いた。そして一九一九年のパリ講和会議では、ベルサイユ条約締結の場で西園寺と運命的な再会をすることになる。
要するに、西園寺はこうした人々との交わりによって人権擁護や労働者の権利あるいは言論の自由といったものの価値を学んでいったのだ。それは、軍人出身で常に国家の側から国民を見ていたライバル桂太郎には無いものだった。
西園寺が異様と言えるほど長期に及んだ留学を切り上げて日本に帰ったのは先に述べたように一八八〇年、三十一歳のときなのだが、これほど「留学」が長期におよべば帰るきっかけをつかみにくくなる。フランス人の妻がいたわけでは無かった。愛人ぐらいはひょっとしたらいたかもしれないが、少なくとも子供はいなかった。西園寺は生涯を通じて正妻を持たずに過ごした人物であった。
もちろん、歴とした公家の当主が正妻を持たず子を作らないというのはきわめて異例である。おそらく、そこからだろう。西園寺家では「家芸」である琵琶の守護神弁財天が代々当主の「正妻」で、「人間の妻」は権妻扱いをしているのだという「伝説」も生まれたが、どうやらこれは事実では無いようだ。また西園寺は生涯を通じてみればむしろ「女好き」で、女性に興味が無かったわけでも無い。
そういうしがらみが無いのに西園寺は九年も帰らず、なぜ九年目になって突然帰ることにしたのか。このことについて本人はなにも語っていないのだが、私はやはり明治天皇の「お手元金」下賜がきっかけだと思う。この下賜、じつは留学の当初に為されたのでは無い。なんと、留学七年目の一八七八年に「二年分」という名目で贈られてきたものなのだ。つまり、「西園寺よ、あと二年で帰って来いよ」という天皇のメッセージであると考えるのが自然ではないかと思う。