公家、とくに名門の公家は「われわれは天皇家をお守りする藩屏である」という意識が強い。フランスで世界の最先端の民主思想の洗礼を受けた西園寺も、その意識だけは生涯捨てなかった。このあたりが「足軽の息子」である中江兆民との大きな違いかもしれない。
恩師アコラースも帰国を勧めたという。学んだことを故国で生かすべきだ、と言われたらしい。それもあって、西園寺はとうとう帰国した。しかし、官途には就かず、ぶらぶらしていた。もう「維新の志士」たちも世代交代しており、積極的に就職を世話してくれる先輩はいなかった。そこへ、留学生仲間で一足先に帰国していた松田正久から声がかかった。「新聞を創刊するから社長になってくれないか」という依頼である。西園寺は快諾し、中江兆民にも参加を呼び掛けた。兆民も喜んで話を受けた。
四歳歳上の松田は肥前国(佐賀県)の出身で、兆民と同じ貧しい武士の家に生まれた。しかし、縁あって幕末有数の学者である西周の下でフランス語を学び、その推薦で陸軍省の官費留学生となりフランス留学を果たした。興味深いのは、その留学目的が「兵学修業」だったことである。つまり、松田も西園寺と同じ「あてはずれ組」だったのだ。
しかし縁は異なもので、まさにこのことが二人を親しくした。そして軍人出身としての出世を断念した松田は帰国後陸軍を辞め、ジャーナリストそして政治家としての道をめざし後に西園寺の盟友になる。このとき彼らが創刊した新聞の名は『東洋自由新聞』という。だが、この社長西園寺公望、主筆中江兆民という豪華陣容の新聞は長くもたなかった。事典を引くとその間の事情が書いてある。
〈東洋自由新聞 とうようじゆうしんぶん
1881年3月18日に創刊された自由民権派の日刊新聞。前年3月に国会期成同盟が結成され、自由民権運動が本格化しようとしていた頃、西園寺公望がフランスから帰国して社長となり、パリで知合った中江兆民を主筆に据えて創刊した。これに驚いた政府は、太政大臣三条実美、右大臣岩倉具視を通して新聞との絶縁を西園寺に迫ったが西園寺は拒否した。そこで4月8日、天皇から退社せよという内勅が出され、ついに西園寺も屈服した。このため4月30日34号限りで突如廃刊された。〉
(『ブリタニカ国際大百科事典』)
「内勅」というのは、内々に出された天皇の命令という意味である。公表はされない。じつは、この前段階に天皇の「内諭」というのがあったらしい。これは「命令」よりは弱く、「おさとし」という感覚のもののようだ。もちろん公表はされず、「西園寺よ、帝は自由民権派の新聞社の社長など辞めるべきだと思し召されておる」という形で本人に伝達された。つまり、事典の記述にある「太政大臣三条実美、右大臣岩倉具視を通して新聞との絶縁を西園寺に迫った」という部分がそれだ。
しかし、西園寺は拒否した。「御学友」だった西園寺は実際、「話せばわかる」と思っていたようだ。また正三位という高位の公家でもある西園寺は、直接宮中に参内する資格もある。しかし、保守派の頂点に立つ岩倉がそんなことを許すわけが無かった。そのあと、「内勅」という形で「勅令」も出された。これも本当に天皇が出したのか西園寺はおおいに疑っていたのだが、「天皇の命令」にはいくらなんでも逆らうわけにはいかない。逆らえば、逆賊になってしまう。
とうとう西園寺は白旗を挙げ、社長の座を退いた。
(第1361号へ続く)
※週刊ポスト2022年11月18・25日号