羽生結弦の単独アイスショー「プロローグ」から「CHANGE」の演技(AFP=時事)
本稿、文量も限られるため内容については各報道の通り、いまさら細かいプログラムや技術面の紹介は割愛させていただくが、まず6分間練習を模した冒頭からのSEIMEIにはアスリートとしての矜持を見た。アイスショーを90分以上一人で滑り切るという覚悟と自信なのか。転倒すら、羽生結弦という「ドキュメンタリー」のエッセンスだった。もう競技会ではない。羽生結弦という芸術であり、そのドキュメンタリーの軌跡である。筆者は逆に、あの北京の「天と地と」を終えた後の言葉「報われない努力だったかもしれない」「でも、一生懸命頑張りました」を思った。そして先の女性の「一生懸命でしょう」もまた思い返された。羽生結弦はもう、羽生結弦そのものが芸術であり、成否含めたそのすべてが「ドキュメンタリー」なのだ。
また、とくに映画館を一瞬、賑わしたのがライビュやCS放送(CS朝日2)のカメラを一生懸命探す姿だった。広い会場でわかりにくかったのだろう。結局、少々違う方向に挨拶、という状態になってしまったが、映画館のファンたちも微笑ましく銀幕に向かって手を振り返していた。
こんなに横浜からは遠くて、決して大きいとは言えない映画館も気にしてくれている。
場内の人たちはきっとそう思ったに違いない。42都道府県の映画館の方々も、CS放送で観ていたファンのみなさんも同じ思いだったろう。また、ファンから力をいただく、演技をすることが恩返しと語ってきた羽生結弦だからこその、誰一人漏らすことなき「恩返し」だろう。
特筆すべきは『いつか終わる夢』である。総合芸術としてのプロジェクションマッピングとの融合の美しさは言うまでもないが、ジャンプなきそのスケーティングに目を見張った。基礎の塊のような構成、それにしてもなんて綺麗なクロスロールなんだろう。これが初振り付けとは、コリオグラファーとしての才能はもちろん、このアイスショーには広すぎると思われたリンク設計も計算ずくということか。「アマチュアという競技」から開放されたアスリートは、まさに「羽生結弦」という芸術を舞う。
『花はどこへ行った』から『プロローグ』へ
競技会では結果という結果のすべてを獲得してきた。オリンピック二大会連続金メダル、男子シングル初のスーパースラム(五輪、世界選手権、グランプリファイナル、四大陸、世界ジュニア、ジュニアグランプリファイナル)の達成者である彼の技術も芸術性も変わろうはずがない。しかしこの『エピソード』における羽生結弦、演技の細部に「叙情」がさらに増しているように思う。これを「大人の滑り」などと凡庸な表現には留めたくない。明らかに芸術としての叙情性が、指先から体重移動、膝の細部にまで宿っている。スパイラルひとつとっても美の「語り」がある。その「語り」が「叙情」を生む。