お互いに敬い合う方が生きやすい
「吉原で男に生まれた人の居場所のなさや、より弱い部分に暴力が向かう傾向は今も共通で、特に私が気になるのが耐えるカルチャーというかな。確かに忠義を理由に自己犠牲を強いられる場面は現代より江戸時代の方がずっと多いと思う。でも殺すとか殺さないとか、身を売るとか売らないとか、人として受け入れ難いことまで強要され、しかも抵抗できない構造は、今に地続きのままだと思うんです。
『耐えるのが日本人の美徳』と言われて、みんな心や体を壊すまで耐えてしまう。一方、言った側は責任を取らずに野放しのまま。
儒教の本を読んでみると、人にとって最も大事なのは仁で、忠はその下なんです。それなのに忠義や献身を一方的に押し付ける人には『貴方こそ仁がないですよ』と私は言いたいし、いつそれが目下の者だけが守るルールにすり替えられたのか。いっそ思考停止はやめて、逃げてもいいから生きようよ、意外と他にも道はあるかもよって原点に返った方が、世の中少しは変わるんじゃないのかなって」
浅間山の大噴火で故郷を追われ、江戸に出て物乞いをする間に母が死亡、その後も火葬場や仕立屋で働いて辛酸をなめ、先代に縁あって拾われたほたるや、一粒種の〈まあ坊〉を最も可愛い盛りに亡くしている久蔵夫妻など、弱冠15歳で国を出た菊之助の力になろうとした人々もまた、誰かに助けられて今があった。
「とにかく一度失敗しても、ごめんなさい、ドンマイでやり直せる社会にするには、どちらが上とかではなく、お互い敬い合う方が安全だし、生きやすいはずです。
でも最近は人に頼るにも逆に助けるのにも躊躇するカルチャーがある気がしてしまう。チャリティーひとつやろうにも偽善って言われちゃうんですよね。甘えたって、迷惑かけたっていいじゃんって思うんです。追い込まれる前に言わないと手遅れになりかねないし、特に男性は弱音を吐くのが苦手だったりして、耐えるべきカルチャーは今なお社会を蝕んでいる。それを少しでも楽にできたらいいなと、そういうのが私の一貫したテーマになっている面はあります」
むろん本書は小説であり、歌舞伎という見せてナンボ、語ってナンボの世界を描く、虚構中の虚構といっていい。が、そうした嘘や外連にも人の思いや血が通い、真を見せる瞬間も時としてあり、だから著者は歌舞伎を愛し、時代小説を書くのだろう。
【プロフィール】
永井紗耶子(ながい・さやこ)/1977年神奈川県出身。慶應義塾大学文学部卒業後、新聞記者を経てフリーライターに。経済から古典芸能まで幅広い分野で活躍し、2010年「絡繰り心中」(後に『部屋住み遠山金四郎絡繰り心中』)で第11回小学館文庫小説賞を受賞しデビュー。2020年の『商う狼 江戸商人杉本茂十郎』で第40回新田次郎賞、第10回本屋が選ぶ時代小説大賞受賞。昨年『女人入眼』が直木賞候補となるなど目下注目の気鋭。著書は他に『横濱王』『大奥づとめ』等。158cm、B型。
構成/橋本紀子 撮影/国府田利光
※週刊ポスト2023年2月3日号