哲学の言葉がすっと腑に落ちた

 当初こそ父の言動に振り回された著者も、〈メモしてないの?〉という妻の指摘以来、ノートを常に携帯。発言を逐一書き取ることで、自身も楽になったという。

「面と向かうと何かイラッと来るんですよね、うちの親父は。でもメモを取りながらだと目を合わせなくて済むし、親父の言いたいことや一理についても一呼吸おいて吟味できたんです。

 例えば〈俺に言わせりゃ〉というのが親父の口癖で、こちらの話を一度否定しないと話が出来ないところがある。『確かに寒いよ。でも俺に言わせりゃ寒い』みたいに(笑)。なんでいちいち否定するのかと考えていたら、『あらゆる規定は否定である』という哲学の言葉が、すっと腑に落ちたんです」

 認知症という呼称は2004年、厚生労働省が作成した〈行政用語〉で、古代では痴呆は医学対象ですらなく、契約や相続に関わる〈社会的・法的問題〉だったとか。

「母が死んで私がまずしたのもご近所への挨拶回りで、『父が認知症で』と言うと皆さん、『わかるわ』『見ててあげるから』って、一言でご理解いただけたくらい、社会的に通用する言葉なんです。

 しかしウチで親父と2人きりの時は認知症も何もなく、全てを認知症のせいにしすぎると、父は昔からこうだという連続性を見失いがち。私も一時は哲学や思想方面に暴走してしまいまして。〈『存在』とか言ってる場合じゃないでしょ〉という妻の喝のおかげで、目が覚めたわけです(笑)」

 患者には優しく、『大丈夫』と声をかけるといった介護上の大原則も、夫人は〈大丈夫ではありません〉と一蹴。時には「ご自由に」と突き放し、過剰にかまわないことで、母の不在を思い知らせるなど、生活者ならではの確かな目が素敵だ。

「親父は戦争の影響で小学校もやめちゃっていたから、知識や教養で武装しない分、力関係には敏感なんですよ。表面的な優しさや甘言より生きるために真に頼りになる相手を動物的に嗅ぎ分けるタイプで、実はニーチェもそうだったんですよね。そうか親父はニーチェだったのか、いやソクラテスかサルトルかっていうくらい、哲学とは親父のことであり、認知症のことでした」

 学生時代は嫌悪すらしたというヘーゲルやデカルトやハイデガーがすんなり理解できたのも、父を知りたいという思いの強さゆえか。確かに認知症や数々のお約束事を超えた関係性の中に、この父と息子はいる。

【プロフィール】
高橋秀実(たかはし・ひでみね)/1961年横浜市生まれ。東京外国語大学モンゴル語学科卒。テレビ制作会社を経てノンフィクション作家となり、1992年『TOKYO外国人裁判』を刊行。2011年『ご先祖様はどちら様』で第10回小林秀雄賞、2013年『「弱くても勝てます」開成高校野球部のセオリー』で第23回ミズノスポーツライター賞優秀賞受賞。著書は他に『からくり民主主義』『趣味は何ですか?』『損したくないニッポン人』『やせれば美人』『定年入門』『道徳教室』等。180cm、85kg、O型。

構成/橋本紀子 撮影/国府田利光

※週刊ポスト2023年2月24日号

関連記事

トピックス

気持ちの変化が仕事への取り組み方にも影響していた小室圭さん
《小室圭さんの献身》出産した眞子さんのために「日本食を扱うネットスーパー」をフル活用「勤務先は福利厚生が充実」で万全フォロー
NEWSポストセブン
“極秘出産”していた眞子さんと佳子さま
《眞子さんがNYで極秘出産》佳子さまが「姉のセットアップ」「緑のブローチ」着用で示した“姉妹の絆” 出産した姉に思いを馳せて…
NEWSポストセブン
六代目山口組の司忍組長(時事通信フォト)と稲川会の内堀和也会長
《日本中のヤクザが横浜に》稲川会・清田総裁の「会葬」に密着 六代目山口組・司忍組長、工藤會トップが参列 内堀会長が警察に伝えた「ひと言」
NEWSポストセブン
5月で就任から1年となる諸沢社長
《日報170件を毎日読んでコメントする》23歳ココイチFC社長が就任1年で起こした会社の変化「採用人数が3倍に」
NEWSポストセブン
石川県をご訪問された愛子さま(2025年、石川県金沢市。撮影/JMPA)
「女性皇族の夫と子の身分も皇族にすべき」読売新聞が異例の提言 7月の参院選に備え、一部の政治家と連携した“観測気球”との見方も
女性セブン
日本体操協会・新体操部門の強化本部長、村田由香里氏(時事通信フォト)
《新体操フェアリージャパン「ボイコット事件」》パワハラ問われた村田由香里・強化本部長の発言が「二転三転」した経過詳細 体操協会も調査についての説明の表現を変更
NEWSポストセブン
岐阜県を訪問された秋篠宮家の次女・佳子さま(2025年5月20日、撮影/JMPA)
《ご姉妹の“絆”》佳子さまがお召しになった「姉・眞子さんのセットアップ」、シックかつガーリーな装い
NEWSポストセブン
会話をしながら歩く小室さん夫妻(2025年5月)
《極秘出産が判明》小室眞子さんが夫・圭さんと“イタリア製チャイルドシート付ベビーカー”で思い描く「家族3人の新しい暮らし」
NEWSポストセブン
ホームランを放ち、観客席の一角に笑みを見せた大谷翔平(写真/アフロ)
大谷翔平“母の顔にボカシ”騒動 第一子誕生で新たな局面…「真美子さんの教育方針を尊重して“口出し”はしない」絶妙な嫁姑関係
女性セブン
寄り添って歩く小室さん夫妻(2025年5月)
《木漏れ日の親子スリーショット》小室眞子さん出産で圭さんが見せた“パパモード”と、“大容量マザーズバッグ”「夫婦で代わりばんこにベビーカーを押していた」
NEWSポストセブン
六代目体制は20年を迎え、七代目への関心も高まる。写真は「山口組新報」最新号に掲載された司忍組長
《司忍組長の「山口組200年構想」》竹内新若頭による「急速な組織の若返り」と神戸山口組では「自宅差し押さえ」の“踏み絵”【終結宣言の余波】
NEWSポストセブン
違法薬物を所持したとして不動産投資会社「レーサム」の創業者で元会長の田中剛容疑者と職業不詳・奥本美穂容疑者(32)が逮捕された(左・Instagramより)
「よだれを垂らして普通の状態ではなかった」レーサム創業者“薬物漬け性パーティー”が露呈した「緊迫の瞬間」〈田中剛容疑者、奥本美穂容疑者、小西木菜容疑者が逮捕〉
NEWSポストセブン