まずは北九州市立文学館主催「子どもノンフィクション文学賞」の選考で訪れた小倉を起点に九州を南下。
「その小倉でキリスト教と在日コリアンの悲劇の歴史に触れ、これは大変な取材になりそうだと思いながら熊本へ。なのに熊本バンドの取材もせずに人吉に行ってみたり、喩えは仏教的になりますが、人とのご縁に終始身を任せる、行き当たりばったりの旅でした。
そうやって歩いてみると、やっぱり1人1人に大変な信仰や人生の物語があって、結果的には『神とは何か』というより、『神を信仰して生きるとはどういうことなのか』をめぐるノンフィクションになっていった。
神に関してならドーキンスやホーキングが彼ら科学者へのバッシングに答える形で書いていますが、その神を信じる人の半生を軸に据えた本となると、なかなかないように思います」
ちなみに『証し』とは、〈キリスト者が神からいただいた恵みを言葉や行動を通して人に伝えること〉。実際、著者が訪ね歩いた津々浦々の信者や牧師達は、「こんな話で宜しければ」と言って、神との出会いや自らの来し方を思い思いに語り、その方言や言い回しや息遣いすらそのままに、最相氏は本書に書き留める。
その中には、長崎や五島の禁教の歴史に連なる人々や、近代以降に迫害の対象となった奄美のキリスト者、先述の在日系教会やハンセン病療養所で信仰と出会った人、ダウン症の息子を亡くした母親や震災の被害者など様々な人がいた。そして、差別や貧困、虐待や死別といった不条理と信仰との関係性も、実は驚くほど人それぞれなのだ。
洗礼を受けようと思う瞬間もあった
「そうしたつらい経験から信仰に入った方もいれば、わりと普通の感覚で聖職者になる方もいて、雷に打たれるような経験をした方って意外と少ないんですよ。それも話を聞いてみて初めてわかったことで、だから〈問う〉わけですけれどね。
自分はこれで救われたと、証しを立てられる人の方が実は少数派で、神を信じるからこそ疑い、何度も問い続けるのが、信仰を生きるということかもしれない。実際、〈じゃあ、神様に懸けてみます〉と言って始まる信仰もあれば、幼児洗礼を受けた後悔を語る人もいて、いわゆる宗教2世3世問題というのも献金云々より、もっと語られるべき側面があるように私は思います」