定年退職後に心理学を学び直した正木はカウンセラーとしては新米で、晴川の後輩になる。晴川がホームズで、年配の男性である正木が助手のワトソン役を担うのも新鮮で面白い。
相談室を訪れるのは、就職難に苦しめられる17歳の女子高校生、婚約者と別れた29歳の男性、1人で出産にのぞむ38歳の妊婦など、年齢も属性もさまざまな5人だ。
「高校生、特に地方在住の高校生の就職が大変で、ブライダルやホテル関係は壊滅的、というのは新聞記事で読みました。結婚したばかりの医療従事者の方が、仕事を辞めてほしいと配偶者に言われ離婚したというのも実際にあった話で、いろんな立場の人を取り上げて書こうと思ったきっかけでもあります」
さまざまな経路で市役所3階にたどりついた相談者たちは、晴川や正木に悩みを打ち明けるなかで、初めて自分自身に向き合える。カウンセラーは解決策を示すのではなく、静かに話を聞いて相談者が自分で答えを見つける手助けをする。
一番いいトリックは読む人の偏見に気づかせたりするもの
相談室での会話が面白いのは、相談者が必ずしもほんとうのことを話すとは限らないからだ。聞くことのプロである晴川は、小さな違和感から言葉の裏にある真実を導き出す。
「現実の生活でも、積極的に嘘をつくつもりはなくても、知られたくないことを話さなかったり、相手に合わせてなんとなく言わなかったりすることはよくありますよね。
ニュースを見ていると、最初の速報で流れた情報だけのときと、後から詳細を知ってでは感じることが全然違ったりします。世間の反応が掌返しになることも。情報が絞られると受け取り方が全然異なるし、誤解も生まれるのが人間の面白さで、情報を発信する側が恣意的に操れるものでもある、と常々思っていました」
作家の思い通りに読者は操られ、驚かされる。
「読者を驚かせようとはもちろん考えますけど、その驚きが、読む人のものの考え方や、偏見に気づかせたりするものが一番いいトリックだな、と思っています。驚かされたことで、ふだん、自分はこういう情報だけでこう判断していたんだなと思ってもらえるような必然性のあるトリックを書きたいですね」
出てくるトリックはどれも魅力があるが、トリックのアイデアから作品を組み立てたりはしないそう。
「執筆前に、詳細な設計図をつくるんですけど、設定と大きな展開、回収の方法をあらかじめ決めておきます。そうしておくと、登場人物の心情やせりふ、情景描写に専念できるんです。そこを書いている時間が私は一番好きなので、雑念なく向き合うためにストーリーラインを先に決めておきます。
謎の解決策は、机に向かって一生懸命ひねり出します。魅力的な謎や書きたい設定が思い浮かぶとメモしておくんですが、せっかく思いついても解決策が見つからなくて、謎のストックばかりがたまっていきます(笑い)」