心当たりがある人のFacebookには、加害者を名指しする告発が書かれていた(イメージ、dpa/時事通信フォト)
自身だけでなく、家族へも危険が及ぶかもしれないと思った坂本さんだったが、警察は「それは当事者で解決してください、謝罪してみては」というばかり。その後、
Y氏の自宅へ謝罪に訪れたが、Y氏本人が出てくることはなかった。一方、今でもY氏の書き込みは続いていて、坂本さんは頭を抱えている。
「正直、こうなるまでYのことは忘れていました。Yは高校時代に引きこもりになったようですが、その責任も僕にあるんだと思います。今は反省するしかなく、謝罪だってしたいが、家族まで不安にさせるようなことは……やめてほしいというか……。僕の責任ではあるんですが……」(坂本さん)
筆者にもいじめられた経験はあるし、いじめた経験もある。いじめられた経験は忘れられないし、相手の名字を見ただけで気分が害されることもある。一方、いじめた記憶はおぼろげで、誰をどういう形でいじめていたのかはっきりと思い出せず、ここで紹介した本田さんや坂本さんのように、いつか「反撃」を食らう日が来るのかもしれないが、まさに自業自得、身から出た錆に他ならない。
いじめは、近年になって「犯罪行為そのもの」とも指摘されるようなったが、それはこれまで、いじめ被害が軽視されてきたことの裏返しでもある。だから、救済されないまま放置されたいじめ被害者は、相当数に上るはずだ。たとえ時間が経った出来事であっても、救われる術を模索することに意味はあるだろう。それが、恨みをぶつけるだけのような形になることは、望ましいこととは思えない。
また「反撃されるからいじめをやめる」では、問題の根本的な解決にはならないかもしれないが、少なくともいじめ加害者に対する一定の抑止力になる可能性はあるだろう。芸能人による勇気ある「いじめ被害告白」は、有名人だけの特権という行為では終わらず、一般社会にも多大な影響を及ぼし始めている。いじめられた被害体験、いじめてしまった加害体験は、どのように解決するのがよいのか。その答えはまだ誰にも見つけられないままだ。