一連の裁判を傍聴したフリーライターの高橋ユキ氏が語る。
「被告が小学6年生のとき、妹が生まれました。すると養父が『部屋が狭くなるから、アパートの隣の部屋を借りて、被告の部屋にしよう』と提案し、母親もそれに賛成しました。母親は調書で『被告を邪魔者扱いしていた印象はなかった』と述べていましたが、もともと心臓が悪くペースメーカーを入れていた養父の検査結果が思わしくないことがわかってから、新しい家族にもまた、暗雲が立ち込めはじめたようです」
養父が母親を怒鳴りつけ、被告が庇うこともあった。母親は調書で、「料理の仕方や出し方について文句を言われることが増え、被告が私を庇うことが何度もあった。私が責められる姿を見たくなかっただろうし、養父が許せなかったのだろう」と振り返っている。
いつしか被告は養父とふたりきりになることを避けるようになり、中学1年生の半ばから不登校に。2年生の頃には食事がとれない状態になり、小児科で起立性調節障害と診断され、即入院が決まった。被告が中学2年の夏に養父は病死したが、倒れる直前の暴力は一層激しいものになっていた。調書で被告の母親は「殴られて生活に限界がきていた。いずれは出ていこうと決意していた」とも明かしている。
被告は生前の養父と母親と3人で川遊びに出かけ、川の中で尻もちをついてしまったことがあったが、養父は笑って見ていて助けてくれなかったことを振り返りながら、〈人を信用できないって初めて思った〉と、被告は当時、母親に言っていたのだそうだ。