人生100年時代とはいえ、区切りは訪れるものである。そこでの振る舞いが“晩節”を決定づけることもある。コラムニストの石原壮一郎氏が考察した。
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「もしかしたら“引き際”にこそ、その人の本質や値打ちが表われるのかもしれない」
つい最近、そう思わされる対照的な「引き際」の光景を目にしました。自民党の重鎮である二階俊博元幹事長の記者会見と、落語界の重鎮である林家木久扇さんの最後「笑点」です。二階元幹事長は85歳、木久扇さんは86歳と、奇しくもほぼ同年代です。
二階氏の記者会見は、自分が次の衆院選に出馬しないと発表するものでした。冒頭で用意されたコメントを読み上げ、その後の記者の質問には、お供っぽく横に立っていた林幹雄元幹事長代理がおもに応対します。政治家は自分の言葉で思いを伝えるのが仕事のはずですが、よっぽど疲れてらっしゃったのでしょうか。
このタイミングでの不出馬表明には、派閥の政治資金パーティーをめぐる問題に対する党の処分を逃れるためではないかとか、息子に地盤を継がせる思惑があってのことではないかとか、たくさんの疑問が向けられていました。ところが、二階氏は「政治的責任を」などと抽象的な言葉を不機嫌に力なく並べるばかりでした。
耳を疑う“事件”が起きたのは、記者から「このタイミングで次の衆院選の不出馬を決めたのは、不記載の責任を取ったのか、年齢の問題なのか?」と質問されたとき。「不記載」については、林元幹事長代理から「(初めにメモを読み上げたコメントで)申し上げた通りでございます」という回答がありました。
続けて二階氏は、ムッとした口調で「(政治家に)年齢の制限があるか?」と逆に質問。それに対して記者が「年齢制限はないですが、お年を考えてということですか?」と尋ねると、この日いちばんの怖い顔で記者をにらんで「お前もその年が来るんだよ」と吐き捨てます。さらに続けて、小さな声で「バカヤロウ」とも。
記者会見での発言は、国民に向けての発言と同じです。明らかに不適切な言葉が出てきてしまうのは、年のことを聞かれたのがよっぽど気に障ったのかもしれません。それ以外の場面でも、表情にせよ態度にせよ発言にせよ極めて居丈高でした。ここまで見るものの感情をマイナス方向に持っていくのは、さすがの貫禄と言えるでしょう。