TARAKOさんは「まる子を演じることは自信をもたらしてくれた」と語っていた
自分が好きなもの、人、趣味、旅、カラオケなど“心地よく暮らす”生活においてTARAKOさんもまた信頼のおけるパートナーであり、気の置けない大切な存在だった。「ちびまる子ちゃんランド」を運営するドリームプラザ直営事業部次長の坪井充さんは言う。
「おふたりとも、お忍びでちびまる子ちゃんランドに来てくださっていました。ファンのかたが描いたまる子ちゃんの絵を熱心にご覧になっているご婦人にスタッフが声をかけたら、“実は私、さくらです”なんてことも(笑い)。さくら先生もTARAKOさんもファンのかたが楽しんでいらっしゃるのを見守りながら、気さくにお話ししてくださったと聞いています」(坪井さん)
TARAKOさんはさくらさんが乳がんでこの世を去った2018年に、「こんな恩人に何にもできなかった」と涙ぐみながら“まる子”として弔辞を読んでいる。
《大人になった私へ。まずは何を言うにもまずはコレだね。よくぞ夢をかなえてくれました。あんた本当にえらいよ。おめでとう。大人になった私へ。プライベートは色々あったみたいだね〜。でも、あんたもあんたの作品もたくさん人に愛されたんだから人生バランスなのかもしれないね。大人になって天使になった私へ。そっちはどうだい?》
さくらさんは10年近く闘病していることをごく近しい人を除いては明かさず、穏やかなユーモアに満ちた作品を生み出し続け、静かに旅立った。その姿は、息を引き取る直前まで、元気でかわいらしいまる子で居続けたTARAKOさんと大きく重なる。さくらさんと交流のあったお茶の水女子大学名誉教授の土屋賢二さんが言う。
「離婚当時『いまの快適な暮らしと引き換えにしてまで再婚したくない』と語り、夏休み明け、学校に行きたくないと言う息子に『いいよ、行かないと罰金がくるかもしれないけど、払うから』とサボることを率先して手助けするなど、自分の欲や弱さを自覚してさらけ出していたかた。その一方で自分の人生に対する責任は他人ではなく自分が負うこともはっきりと自覚していました。
ちゃらんぽらんのようでいて、情熱をもって一生懸命に生きていたんです。彼女が信頼したTARAKOさんも、きっとそんな女性だったのだと思います」(土屋さん)
あんたとまた会えて、あたしゃうれしいよ──いま頃2人は空の上でそっくりな声でそう言い合いながら、何度も乾杯していることだろう。
(了。第1回から読む)
※女性セブン2024年4月25日号