佐賀商8-4樟南(1994年):樟南のエース・福岡真一郎は9回140球の熱投も満塁本塁打に泣いた
2つの満塁本塁打
ベスト8に九州勢が5校も残ったこの大会で、決勝の相手となったのも鹿児島・樟南だった。エース・福岡真一郎と、田村恵のバッテリーで、優勝候補と目されていた。
樟南が2回裏に田村の安打から3点を先制すると、佐賀商が6回表に追いつき、その後は一進一退の攻防が続いた。4対4の同点で迎えた9回表、佐賀商は一死満塁のチャンスを得る。
「1番打者(宮原俊次)がチームでもっともシャープなバッティングができる、期待の高い子でした。最低でも犠牲フライを外野に打ってくれるだろうと思っていたら、三振してしまった。策を打てなかった私は『しまった』と後悔する場面でした。私には次の西原(正勝)が凡打に終わるイメージしか湧かなかった。これは1点も奪えないかもしれない……そう思った瞬間でした」
カキーンと甲高い音が球場に響く。一塁側ベンチにいた田中氏はバックスクリーン方向を見上げた。2番の西原がバックスクリーンの左に飛び込む特大のアーチを架けた。
「あのシーンはいまでも脳裏に浮かびます。まだ9回裏の守りがありますから、勝ったとは確信できませんでしたが、4点差がついたことで、選手の気持ちを幾分、ラクにさせたと思います。佐賀に育った教え子たちとともに日本一を達成できたのは、何事にも代えがたい喜びでした。驚きの快挙として報じられましたが、私はその後、取材の度にこう答えていました。『再び佐賀県の学校が優勝することがあると思いますよ』と。そしたらですねえ……」
13年後、今度は佐賀北が全国制覇を遂げるのだ。田中氏は日本高野連の役員として甲子園で観戦していた。偶然にも——いや、運命的かもしれない。佐賀商の時と同じ満塁本塁打で勝負が決した。
「うちの西原というキャプテンが打った本塁打と、副島君のホームランは同じようなところ(バックスクリーン左)に飛んでいった。打球を見上げながら、とにかくびっくりしましたね。奇跡がまた起きたんですから」
佐賀商を率いた田中氏の教え子に、香田誉士史氏(現駒澤大監督)がいる。香田氏は駒大苫小牧を率いていた2004年に北海道勢として初めて全国制覇を遂げ、3年連続で甲子園の決勝に進出。2006年夏は、今年の選手権大会にも出場する早稲田実に延長15回引き分け再試合の末、敗れた。そして、2007年が佐賀北のがばい旋風だ。つまり、4年連続で、田中氏にとって縁のある指揮官、学校が甲子園の決勝に進出した。
「幸せな時間でした。私は本当に教え子に恵まれたと思います」
83歳になった田中氏は高野連の役職も離れ、以前のように球場にも足を運べなくなった。それでも取材には佐賀県高野連のウエアを着て応対した。佐賀の野球人としての誇りは今も失っていない。
■取材・文/柳川悠二(ノンフィクションライター)