その三社祭の最中、教え子達を連れて見物にやってきた信吾は、山車の先頭で威勢のいい掛け声を放つ大工の〈定次〉の表情がふと曇るのを目にし、〈おや〉と思う。定次は10歳の〈源吉〉と、信吾を密かに慕う17歳の姉〈おみね〉の父親で、その視線の先には坊主頭の男が。

 そして後日、慌てて助けを呼びに来たおみねと長屋に駆け付けた信吾は、定次がその男〈岩蔵〉の親分〈狸穴の閑右衛門〉の筋から金を借りたまま姿を消したことを知り、元金の一両が三両二分に膨らんだ証文を突きつけられるや、それをいきなり破って丸め、竈に投げ込んでしまうのである。〈これしか、やりようを思いつかなかった〉と、すまなそうに言いながら。

「本当に、それしか思いつかなかったんでしょうね。この紙がいけないんだったら燃やしてしまえと(笑)。

 信吾は侍とも町人ともつかない自分の立ち位置を見つけられずにいる分、発想にも制約がなく、何より自分の身近にいる人間が不幸になってほしくないという行動原理で動いている。それは誰もが共感できることだと思います。信吾はけっこう人に助けられているんですが(笑)、まずは彼が臆せず理不尽に立ち向かおうとするからこそ、周りも力を貸してくれるわけです。

 僕は、どうも『俺について来い』タイプの主人公が書けないんですが、誰もが毎日探り探り迷いながら生きている現代の読者に、やはり迷ったり助けられたりする主人公・信吾の物語が響くものになっていれば嬉しいですね」

察しの悪い主人公は書いていない

 第二話「紫陽花横丁」では、母が妾であることを友達に知られ、寺子屋に来なくなった少女を案じる中で信吾自身、〈日陰と片づけられがちな身の上にも、華やぎや喜びがないわけではない〉と改めて気づかされる。

 その後も賭場に用心棒の職を得た父を心配する浪人の息子(第三話「父と子」)や、世話になっている正顕院住職〈光勝〉の様子を窺う若者(第五話「秋風吟」)といった訳あり達の為に、信吾は方々を駆けずり回り、自分にできることをする。そこに親友の妹〈奈絵〉との仲や、おみねの健気すぎる恋心の行方も絡み、みなまで言わずとも互いが互いを想い合い、察し合う姿は今の時代には眩しいほどだ。

「それは拙作の特徴であり、願望でもありますね。察しの悪い主人公は、今まで書いていないはずです(笑)。好みの問題ですが、台詞で好きと言わせず、その恋心を読者にはわかる形で描いたり、敵には敵のロジックがあったりするのも僕のツボです。そうして、よりよい着地点を探りつつ、登場人物も作者も半歩前進くらいで成長していければ理想かな、と思っています」

 人には人の事情がある。そんな時、立ち入りすぎず、見捨てもしない関わり方を模索し、周りの人々に助けられながら事件を解決する信吾は、確かに全く新しいタイプの時代小説の主人公かもしれない。

【プロフィール】
砂原浩太朗(すなはら・こうたろう)/1969年生まれ。早稲田大学第一文学部卒。出版社勤務やフリーライター、校正者等を経て、2016年「いのちがけ」で第2回「決戦!小説大賞」を受賞しデビュー。2021年の『高瀬庄左衛門御留書』で注目され、第9回野村胡堂文学賞、第15回舟橋聖一文学賞、第11回本屋が選ぶ時代小説大賞を受賞。2022年には『黛家の兄弟』で第35回山本周五郎賞を受賞した。著書は他に『霜月記』『藩邸差配役日日控』『夜露がたり』等。177cm、62kg、AB型。

構成/橋本紀子

※週刊ポスト2024年10月11日号

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