『翻訳する私』/ジュンパ・ラヒリ・著 小川高義・訳
【書評】『翻訳する私』/ジュンパ・ラヒリ・著 小川高義・訳/新潮クレスト・ブックス/2145円
【評者】東山彰良(作家)
手に取る小説のほとんどが翻訳ものだ。日本の小説が持つ安定した形式美もいいけれど、形式にあまり囚われない海外の小説のほうがのびのびと読める。が、そこには苦悩もある。ジム・ジャームッシュの「パターソン」という映画にこんな台詞がある。「詩を翻訳で読むのはレインコートを着てシャワーを浴びるようなものだ」そう、翻訳された作品は、はたしてオリジナルと同等と見なせるのか?
その答えを求めて本書を紐解いたのだが、結論から言えば、私を慰めてくれるような見解を見出すことはかなわなかった。わりと早い段階で、著者は「翻訳とは変容である」と喝破している。それは「本来の大事な形質を捨てて、その代わりに新しく得るものがあるという、つらく激しい奇跡のような変化を遂げる」と述べ、オリジナルとのあいだに毅然と一本の線を引く。
著者はインド系の移民としてロンドンで生まれ、アメリカで育った。本書はそんな彼女が自身とはまったく縁もゆかりもないイタリア語にのめりこみ、イタリア語で小説を執筆するだけではあきたらず、ついには翻訳まで手掛けるようになった心情を書き綴ったエッセイ集である。
ギリシャ神話を駆使して語られる学術的な翻訳論は、我々読者がどのように翻訳小説と向き合うべきかというより、むしろ翻訳という作業によって翻訳者のなかでどのような変化が生じるのかをつまびらかにしてゆく。
翻訳にまつわる私個人のテセウスの船的な煩悶は解決を見なかったけれど、翻訳における苛烈なまでの言語間の相克を知る上で有益な一作だった。翻訳によって失われるものはたしかにある。しかし著者の言うように、翻訳によって「新しく得るもの」もまたあるのだ。そのズレも含めて、文学を楽しもうではないか。オリジナルだろうが翻訳だろうが、結局のところ、それこそが本を読む醍醐味なのだから。
※週刊ポスト2025年7月11日号