時代に合わせて過激になったり穏やかになったりと、幾多の変遷を遂げてきたドラマ内の性描写。90年代以降は、肌の露出が減る一方で、描写そのものについては過激化する傾向があるが、テレビドラマの表現とはどうあるべきなのか。脚本家のジェームス三木氏が解説する。
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ドラマの基本は、二通りしかない。ひとつは敵と闘って勝つか負けるか。もうひとつは愛が実るかどうかだ。競争系は生存本能であり、愛情系は種族保存本能、突きつめれば食欲と性欲である。動物の二大本能だから、避けて通るわけにはいかない。
人間が他の動物より、少し偉いとすれば、二大本能の暴走を、制御する装置を考え出したことだろう。それが昔は【神】であり、倫理、道徳、法律、掟、ルール、自制心として定着した。人間の行動原理のすべては、食欲と性欲と自制心の三極に収まる。この三角形は、人の個性や人格によってさまざまだが、内角の和はすべて百八十度である。
テレビという媒体は、電気や水道と同じように、各家庭につながるので、エロとか残酷の描写に、ある程度の規制はやむを得ないだろう。表現の自由は大切だが、そこには美学がなければならない。
昨今のテレビ番組は、やたらに叫び、だらしなく騒ぎ立て、節度のかけらもない。テレビドラマについていえば、ナレーションが多く、回想場面が入り、心の声まで聞かせて、説明、解説、誘導、結論まで出してしまう。視聴者は参加できないから白ける。
ドラマは隠せば隠すほど、見る人の想像力がふくらむ。上等なドラマは、七割見せて、残りの三割は見る人の想像力にゆだねるものだ。ドラマが完成する場は、スタジオや撮影所ではなく、見る人の心の中である。
セックス描写も同じだ。見えない部分は、想像力によって主体的に広がる。オナニーを考えれば分かるでしょうが。
※週刊ポスト2013年1月1・11日号