出色は、和歌山と福岡を往復し、カレー事件の被害者と併せて砒素の後遺症に苦しむ保険金事件の被害者の診療にあたる沢井が、学内の総力を挙げて事実を科学的・多角的に究明しようとする姿勢やチーム力だ。
尤も事件は当初、食中毒や青酸中毒と発表され、沢井への依頼はマスコミも知らない極秘事項。和歌山では粗末な宿舎に缶詰めにされ、食事も全て出前だった。
「ただでさえ忙しい中、業績にもならない仕事に善意で協力し、家には記者が押しかける。県警も鰻くらい取ると思って小説では出前を鰻にしたんですが、後で先生に聞いたら、鰻じゃなくてカツ定食でした(笑い)」
被害者の髪や爪を分析し、砒素が盛られた時期や保険金詐取との関係を探る間、沢井は17世紀にイタリアで販売された初の毒物〈トッファーナ水〉や、毒殺史を塗り替えた〈マリー・ラファルジュ事件〉にも言及。また砒素による自殺を克明に描写した『ボヴァリー夫人』やアガサ・クリスティ『蒼ざめた馬』を読んだ毒殺魔グレアム・ヤング、さらに各種薬害や公害史を網羅した挿話も読み処だ。
「『ボヴァリー夫人』を砒素の恐さを描いた小説として読む先生の今一つのライフワークが毒ガスの研究で、平時は日の目を見ない研究を地道に重ね、症例を一例ずつ蓄積してこそ、有事の時の対処もできるんです。
今回も砒素に触れた痕跡が毛髪にどの程度残るかという、ある地味な研究が被疑者の毛髪採取に繋がった。その論文は事件が起きなければ見向きもされなかったんです。そのくせ何か事が起きると砒素のこともサリンのことも何も知らない連中が専門家顔で登場する。そんな連中を重宝がるメディアも大衆も、みんなバカタレですよ」