「私は高校に行きたかったけど、特に母親が、最初から公立高校でさえ行かせる気はなかった。私のことを“勉強できん”って決めつけて、育てているんですよ。だから中学3年生の時、同級生が受験勉強の準備をするでしょ? そういう時に私は家に帰って食事の用意をするのが当たり前っちゅう感じになっていた。本心は高校には行きたかったけど、言わなかった。言ってもどうしようもなかったしねぇ」(シヅ子さん)
高校をあきらめたシヅ子さんは、中学を卒業した後、大好きな洋裁を学ぶべく洋裁学校へ通った。洋裁を教えることもあったが、やはりきちんとした資格を取得して、人に教えたくなった。しかし資格取得には、高校に行かなければいけないことを知る。「なんとしても高校に行かんとダメかなっちゅう考えになってきた。母親には自分の可能性をつぶされたという思いもあったから」──このときはもう母親がどう思おうが、シヅ子さんはまったく気にしなかったという。
そうして門を叩いたのが前述した佐賀北高校の通信制だ。
「うちの仕事を手伝いながら、洋裁の勉強をしつつ、その時は4年間通ったんですが、そのあと結婚して子供が生まれたんです。私は親としてきちんと子育てと向き合いたかったから、高校はいったんストップしたんです。夫は高校に通い続けることを反対しなかったんですけど、あんまりいい顔もせんで…」(シヅ子さん)
アポロ13号が打ち上げられた1970年。日本では大阪で万国博覧会が開催され、経済はますます活気づいた。女性自身による女性解放運動「ウーマン・リブ」が流行語となるなか、シヅ子さんは長男・清治さん(46才)を出産、家事や子育てに追われる。その4年後の1974年、次男・竜美さん(42才)を出産。戦後初のマイナス成長を記録した年、街には殿さまキングスの『なみだの操』が流れていた。
「長男が高校に入学した時、“一緒に行こうかな”と思ったし、次男の高校入学の時もそう思った。ずっとね、高校は絶対に卒業したいという思いがあったんよ。いつかはもう一度高校に行って、卒業しようと思っていたんです。だから1968年までに取得した単位はとっておいたんですよ。でも子供が大学行ったり、結婚したり、孫が生まれたりという生活の中で、いろんなことが重なって、あきらめた。子供は母親が絶対きちんと育てんとダメっていうのが頭にあったから」(シヅ子さん)