それは一般的な和型のお墓で、側面に「昭和四十六年」「昭和五十年」「平成三年」「平成二十二年」の享年を付した4人の俗名と戒名が掘られていた。
「昭和47年の建立のようですね」
黒御影石の墓石の背面に刻まれた文字を指して清野さんが言う。建立されて43年。意外と新しいお墓だ。
「周囲を見てみてください。このお墓と同じく高度経済成長期に建てられたお墓が多いエリアですが、40~50年で役目を終えるお墓は多いんですよ」
見渡すと、10基に1基以上の割合で雑草が生い茂り蜘蛛の巣がはったお墓が目に入る。先般歩いた、明治期開設の都立青山霊園や都立雑司ケ谷霊園における同様のお墓の数より数段多いと、私の目には映る。半世紀を待たずに墓参者がいなくなったお墓の多さは驚くばかりだ。
清野さんと上矢さんは依頼者の区画内を箒で掃き、墓石をタオルで拭き、持参した菊の花束を供える。墓前に折りたたみの小机を置き、焼香の準備も整えた。
◆これまでのような形式的なお墓は必要ない
午前10時、依頼者の吉田久美子さん(64才、仮名)が、夫の康さん(69才、仮名)と共にやってきた。重々しい雰囲気はなく、服装もカジュアルだ。お供え物も持っていない。ひととおりの挨拶の後、「いつも歩いて来られるんですか」と清野さんが聞くと、「ええ。でも、いつもというほど来てないんですが」と久美子さんが苦笑いし、「前に来たの、いつだっけ。確かトシさんって人の納骨のときだったから、5、6年前じゃない?」と康さんも続ける。
「これからお墓を拝んで、魂抜きをします。そして、ご遺骨を取り出し、確認してもらいますね」と清野さん。「着替えてきますので、少しお待ちください」。
清野さんを待つ間に、墓じまいの事情を聞かせてもらった。
久美子さんは一人っ子。実家のお墓だった。建てたのは久美子さんの父。当時、大手企業の事務系サラリーマンで、川崎市内に住んでいた。もっとも出身は北関東で、転勤族。川崎在住は約8年間。その間──久美子さんが中学生の時に祖母が亡くなり、必要に迫られ建てたのだろうという。家庭事情が複雑で、その時すでに死去していた祖父は北関東の本家のお墓に入っていた。