自分に課せられた立ち位置や意味を、クールに正確に見抜いている芦田さん。その時々に求められる「芦田愛菜」像を、完璧に演じていくだけでなく、「映画の主人公を演じる12歳の役者」を、もう一つ別の目で、外側から距離をもって観察している。
そんな芦田さんのプロフェッショナルぶりが際立つからこそ、みんな尊敬語を使いたくなる。年下としてではなく対等に接したくなる。「芦田さん」に丁重に語りかける山田プロデューサーら周囲の大人たちの姿が、また興味深い。
もう1つ、「役者偏差値の高さ」について指摘するのであれば、山田孝之氏の存在に触れないわけにはいきません。作品内では「プロデューサー」として登場する山田氏、もちろん役者として演じている。かつ、この作品の企画自体にも絡んでいるはず。ドキュメンタリーとドラマのあわいというテーマは、同枠の前作『山田孝之の東京都北区赤羽』でも挑戦。虚実のあわいという、とことん頭を使う難しいテーマに繰り返し取り組んできた。
あるいは「ジョージア」のCMでは千変万化するキャラになりきり、自分のイメージを絶えず覆していく冒険に意欲を燃やす。さらに、NHK『映像の世紀』での優れたナレーション。激動の20世紀、人類が経験した壮絶、過酷な出来事。世界大戦に虐殺、謀略と政治を生々しく伝える、緊張みなぎるドキュメンタリー。そこに静かに深く響く声でナレーションをつけるという大仕事を、山田氏は見事にこなしていました。
「時代を捉えた大作ドキュメンタリー」を相手に、出来事の意味を理解し、かつ自分が出過ぎないよう抑制し、冷静で正確な語りを遂行するには、「役者偏差値」が図抜けて高くなければならないはず。といった意味で、『山田孝之のカンヌ映画祭』は、「役者偏差値」についていろいろと考えさせてくれる、秀逸な作品に仕上がっています。