何もかもが懐かしいことばかりで、ときどき林葉の目に涙が浮かび、私も幾度となく胸が一杯になった。新宿の煙の立ち込めるあの道場で出会ってから40年の月日が流れている。
林葉は今、完全禁酒と減塩と野菜中心の生活、そして8種類の薬を飲むことで生き延びている。5年前に出回った写真は、いつ死んでも不思議じゃない雰囲気だったが、目の前にいる彼女はやせてはいるものの目に輝きがあり生気に溢れている。
「将棋しようよ、将棋」と何度も挑まれるが、とても私のような者が敵う相手ではない。
「やりたいことはすべてやりつくしたからもういつ死んでもいい」とけらけらと笑う。
その天性の明るさは何も変わっていない。40年前と変わったことがあるとすれば、私が煙草をやめ、林葉に煙を吹きかけられることだろうか。
ホテルから近いレストランで食事をとった。すると今、将棋界を騒がせている新星・藤井聡太にも話が及んだ。
彼女は、強さを備えた棋士だけが醸し出す雰囲気を17才に見つつも、「でも、羽生君のほうが生意気だったよね。目が大きくて、対局しながら、こう相手を結構見上げる、にらむような感じで見るからね」と笑う。続けて、まだ10代の羽生善治を連れて、カラオケに行った話を語った。私のワインに手を伸ばして横取りしようとしては怒られる。
林葉は、終始ご機嫌だった。最後に本当に後悔していることはないのかと聞いた。すると思わぬ言葉が返ってきた。
「やっぱり将棋かな」
「将棋?」
「うん。もっと将棋を一生懸命やるんだった」
私たちは福岡の夜の街で別れた。
「また会えるかなあ」と林葉は聞いた。
「もちろん」と私は答えた。
■大崎善生/1957年、北海道札幌市生まれ。早稲田大学卒業後、日本将棋連盟に入社。「将棋世界」編集長を務める。2001年退社して作家活動に。主な著書に『聖の青春』『将棋の子』『いつかの夏──名古屋闇サイト殺人事件』など。
※女性セブン2019年10月17日号