詐欺なんてとんでもないと厳しくなる一方の世間の目と、特殊詐欺に手を染める普通だったはずの人たちの犯罪に対する軽さ。二者の間に横たわる感覚の溝は、もはや埋め方が分からないほど深くなってしまったのではないか。犯人の家族は、その狭間で何も知らされず、そして何の反論も許されることなく、息を潜め、世間から隠れるようにして過ごすことを強要される。
また、一般人が詐欺を働くような”特殊な”人物へと変貌すると、家族も第三者も驚くかもしれない。しかし、特に受け子や出し子といった「犯行」は、SNSなどによって「簡単なバイト」として人員が集められ、出し子や運び屋であれば、被害者と対峙する必要もなく、だからこそ罪の意識を一切感じることなく、いつの間にか「正当な仕事と報酬」を受け取っているような錯覚を抱くほどだ。
実際に特殊詐欺に関わった人々は、周囲が思っているより罪の意識は格段に低い。自分が卑劣な犯罪者という”特殊な人間”に成り果てたことにも気が付いていない。無論そこには、食うに困ったとしても犯罪を「やるか」「やらないか」の判断は当然あり、多くの人は後者を選ぶだろうが、昨日まで普通だった人がいとも簡単に”特殊な”人間になってしまうシステムができているのが実情だ。
いうまでもなく特殊詐欺は犯罪である。特殊詐欺に手を染めた人間は、法律に沿って相応の罰を受けねばならない。しかし昨今、犯人たちの境遇をあざ笑うだけ、その浅はかさを愚かだと唾棄するだけで、犯行に至った背景について調査や議論をし、犯行に手を染めようとする可能性のある追い込まれた人々の救済方法は語られない。
「心配してくださってありがとうございます。私もどうしていいかわかりません。本当に申し訳ないとしか…」
齢80と高齢であるCさんの涙は、罪を犯した男、その家族にとって後悔を抱かせずにはいられないものだろう。しかし彼らが抱える悔恨は、私や読者に一切関係のないことなのか、分断された別の世界で起きている他人事なのか。改めて考え直してみたい。