息の詰まるような母娘の生活の中でハミ山氏が許されていたのは勉強だけだった。母親は「東大受かるから、受けてね」と当然のように東大進学を娘に要求し、もともと勉強のできたハミ山氏はその期待通りに努力を重ねて、合格した。
しかし、東大進学後も束縛は続いた。
母親はハミ山氏の携帯電話や手帳を勝手に見ることもあった。成人になっても外泊は許されず、大学の歓送迎会や飲み会にも気軽に参加できなかった。ごくたまにハミ山氏が夜8時を過ぎて帰宅すると、母親は「こんなに遅くまで出歩くなんて正気の沙汰ではない」と叱責した。
「その頃はまだ『ウチって過保護なんだな』くらいにしか思っていませんでした。今から振り返れば、私は子供の頃から母が何でもしてくれたから、自分は何もしなくてよくて楽だった。進路すら母が決めて、自分は何も考えなくていいから甘えていたんです。母は私に乗っかっていたし、私も母に乗っかっていたということで、結局のところ、私も母を利用していたのでしょう」
そんなハミ山氏が母親との関係の歪さに気づき、新しい生活を切り開くための一歩を踏み出したのは、東大を卒業して社会人になって2年目だった。
「大きなきっかけになったのは、初任給でした。同僚は『何に使う?』と話していましたが、私は学生時代のバイトの時から働いてもらったお金はすべて母に渡し、社会人になってからは通帳も託していたので、自分の給料はいくらかすら知らなかった。それに昔からいらないものまで母に買い与えられて自分のお金で買い物をしたことがあまりなく、欲しいものがなかった。だから初任給の使い道をあれこれ話す同僚の会話が理解できませんでした。
そのことを周囲に話すと、『それは変だ』と指摘され、“やっぱり私は何かおかしいのかな”と思うようになった。その後に友人から『家を出ないとダメだ』と諭され、『家を出るのは難しいんだ』と返すと、友人は『家を借りてしまえば良い』と言って賃貸の物件探しを付き合ってくれました。それで実際に家を借りることになったんです」
部屋を借りてから少しずつ荷物を運び出していたハミ山氏は、ある日、置き手紙を残して実家のゴミ屋敷から“家出”した。荒療治かもしれないが、母親との関係を断ち切り、自分の心を取り戻すには、他に手段がなかったとハミ山氏は語る。
「複雑な思いを抱きながらも、親のことを好きな子供は多いと思います。実際に私も母のことを好きでしたから。でもずっと親と一緒にいると互いに依存するようになってしまう。その関係性の中で事態が良い方向に進展していくことはなく、何年も何十年も閉塞的な状態が続くはずです。だから子供の人生を親が阻害するような場合は、親に悪いなと思っても、勇気を奮って切り離さないといけない。私にとって、その第一段階は家を出ることでした」