近年は「バス旅」も人気の徳光和夫(80才)が初の自伝 『徳光流生き当たりばったり』(文藝春秋刊)を上梓した。 あるときは涙もろい好々爺、あるときは無類のギャンブル狂。果たしてその正体は? プロインタビュアーの吉田豪氏が迫った。週刊ポスト2021年10月29日号掲載記事の超ロングバージョンをお届けします。(全4回の第2回)
吉田:今回の本で面白いと思ったのは反体制思想を持つことが一つの正義だと思って、組合活動に熱中したことがあったっていうのも意外なんですけど、その迫力のないアジテーションが面白がられて、歌番組に抜擢っていうのが、それきっかけだったんだっていう。
徳光:そうなんですよね、あれは不思議なもんですよね。日本テレビは、僕が入社したころっていうのは組合活動がたいへん盛んでして、僕も60年安保世代ですから樺美智子さんのことも存じ上げてるし……。 あ、これ余談なんだけど、樺美智子さんと一緒に活動して……た人が『24時間テレビ』を作った人だよ。
吉田:あ、そうだったんですか!?
徳光:都築(忠彦)さんっていう人。だから樺美智子さんが亡くなったときはホントにショックで眠れなかったって。まあそういうことを存じ上げてましたし、学生時代に桜田門の前でうねったりなんかしたわけですよ。そういう時代に育ったから、労働組合がある以上、労組に入るのは当然だろうって思ってたわけですね。
そしたら日本テレビの男性のアナウンサーで労組に入ってる人は3、4人しかいなかったんですよ。野球であるとか、相撲であるとか、そういうスポーツの王道の人たちはほとんど労組に入ってなかったの。アナウンサーは労働組合に入るもんじゃないっていうことをあとで言われたんだけど。
吉田:労組に入ったら王道の世界では出世できないみたいな感じだったんですかね?
徳光:そうですね、仲間に入れてもらえないみたいな雰囲気にはなったわけですけど、そういうこともその場は察知できずに、労働組合に入ります。そうすると当時は過激でしたからストライキもずいぶんやったんですよ。ストライキですから決起集会がある。決起集会のとき、「おまえアナウンサーだから司会をやれ」っていうふうに言われて司会をやったんですけど、そのときの司会ぶりが……話が長くなってごめんね。歳だから勘弁して。
吉田:ぜんぜん大丈夫ですよ!
徳光:そのときの司会ぶりが、通常、ストライキの司会っていうのは、「ラジオ日本から柳沢委員長がおりてきてくれました! さあ柳沢委員長、ぜひお願いいたします!!」って口調で、アジテーターみたいな感じで紹介するわけですよ。僕はそういうことができないアナウンサーだったので、「えー、それではただいまより、ラジオ日本よりわざわざお越しいただきました! 労組の委員長、柳沢さまにお言葉を頂戴したいと思います」って。
吉田:結婚式の司会みたいになって(笑)。
徳光:そういうような感じでやったら、それをあまり熱心ではない制作の労働組合の一人であります音楽班の人が見てまして、こいつ面白れえなっていうことで、最初に起用されたのが『こよい酔わせて』っていう歌番組だったんですよ。三浦布美子さんっていう芸者さんと一緒に組まされてやったんですけど、そのときに何か袋をかぶってキス占いをしてたのが伊東四朗さんだったんですよ。
吉田:つまり、最初からまじめなアナウンサー業とは違う方向に行ってたわけですよね。
徳光:そうかもしれませんね。僕としては、なんといっても長嶋茂雄さんの一挙手一投足をアナウンスできれば、大げさでなく、それでアナウンサーを辞めてもいいと思ったわけですよ。ところが、野球はご存じのようにアナウンサーの王道でありますので、たくさん先輩のアナウンサーもいらして。私がしゃべるのは10年ぐらいかかるかもしれない。
それでも僕はいいと思ってたのね、長嶋さんが現役であるならば。つまり野球はある意味でかなり潤沢なんですけども、プロレスは2人でやってたんですよ、清水(一郎)さんと佐土(一正)さんっていう、この二人でやるローテーションはたいへんなわけですよね。清水さんはニュースをやらなければいけない、プロレスはほとんど出張ですから。