辰砂、もしくは竜血とも呼ばれたその石を、水飲みたちは〈赤い岩〉と呼ぶ。昭和13年、北海道工業試験場の鉱山技師として道東・辺気沼一帯を調査に訪れた〈那須野寿一〉は、火薬や艦底塗料に不可欠な水銀を80%も含む赤黒い石を前に〈この山には、竜が眠っている〉と興奮を隠せなかった。
そんな時、笹薮の奥から不意に現れたのがアシヤだ。慌てて後を追い、その近代化から取り残された集落を執念で見つけたのは数日後。それほど寿一は少年の目に宿る〈純粋であることを運命づけられた者にのみ与えられた透明さ〉に魅せられ、同年代の息子〈源一〉にも似た光を見ていたのだ。
ところが集落の長老らは調査を拒み、〈世話になった記憶がないのに、なぜ国のために尽くさねばならん〉と寿一の説得を一蹴。そこに抜け駆けで手紙をよこしたのが、開発を望む〈薊多蔓〉だった。
彼は自然水銀が滾々と湧く秘密の湖の所在を明かし、そこに入れるのは自分たちだけだと那須野に倍の賃金を要求する。実は水銀採取最大の障壁が〈汞毒症〉であり、中毒にならない一族の特異体質は〈高島財閥〉が鉱業権を獲得し、〈フレシラ鉱業所〉が稼働してからも大きな武器となっていく。
繁栄の陰で多くの犠牲者を生む構図
母が湖に姿を消し、幼馴染〈十草〉の父・多蔓に引き取られたアシヤはやがて鉱夫として働くようになる。購買で働く〈山本光子〉と結婚する一方、幼馴染〈萩実苗〉との間にも子を儲けたのは一族の血を絶やさぬためだ。加えて親友を襲った崩落事故や労働争議、社内外にはびこる差別感情など、己や一族のためを唯一の行動原理とする彼の前に理不尽と波瀾だらけの過酷な人の世が立ちはだかる。
「彼らの多くは、山の浮沈と同調するようにダメになっていくけれど、元々ダメで悪いヤツだからダメになるわけじゃない。アシヤにしても山から離れられないという呪縛の中でどうよりよく生きられるか、ずっともがき続けていて、彼らなりに限られた世界を懸命に生きただけなんです。
特に滅ぶ間際の組織って、普通ではあり得ないことをやっていて、その人が狡いから隠すとかじゃなく、組織の側にも道を誤らせる要素があるように思う。私も社会に出て10年近く経ちますが、何かあった時に隠しちゃうとか逃げちゃうというのはもう、人間の本能だと思うんですよ。その辺りの狂い方というのは私自身、既視感はありました」