10代で曲作りを始める
中学生になると、中島はギターを買ってもらい、作詞・作曲を始める。
「帯広柏葉高校に進学。文化祭のステージでみゆきさんが自作の曲を披露したところ、拍手をもらえた。それが自信となり、引っ込み思案の性格が解消されたようです」(富澤さん)
その後、札幌にある藤女子大学国文学科(当時)に入学。精力的に曲を作り始める。
大学では放送研究会に所属。ローカルラジオ局でアルバイトを始め、北海道大学のフォークサークルにも参加するようになる。その仲間で、喫茶店「ミルク」のオーナー・前田重和さんは、当時についてこう語る。
「中島さんと出会ったのは彼女が18才の頃だったかな? ぼくは23才くらいで。
あの頃、ぼくはフォークの団体を主宰していて、北大のフォークサークルとも交流がありました。中島さんは『壊れた蓄音機』という女性ボーカル2人のバンドを組んでいて、『五つの赤い風船』のコピーをしていましたね」(前田さん・以下同)
1970年代に入ると音楽シーンに変化が起きる。
「それまでフォークは英語の歌ばかりを歌っていましたが、東京や大阪で日本語のフォークを歌うグループの活動が活発になり、ぼくら北海道のサークルも合同の研究会を作って、自作の曲を気ままに発表するコンサートを札幌時計台近くの教会でしていました。10回くらいやってからかな……北大サークルの代表から、『うちの美雪(中島の本名)もオリジナル曲を作っているけど、歌う場所がないからそこで歌わせてくれないか』と頼まれました。『もちろん』と快諾したら、彼女はいまと同じ完成度で曲を作っていて、みんな、度肝を抜かれていましたね」
そのとき披露された曲の1つ、『踊り明かそう』は、後にアルバムに収録されている。
一方、松山が自ら作詞・作曲を手がけたのは高校生のとき。フォークの神様と呼ばれた岡林信康(75才)に影響を受け、バイトで貯めたお金でギターを買ったのだ。