さて、明治天皇には『明治天皇紀』という宮内省(当時)が細かく記録した行動記録がある。また、身長等のデータもある。伝記『明治天皇』(新潮社刊)の著者であるドナルド・キーンは、そのダイジェスト版とも言うべき『明治天皇を語る』(新潮新書)のなかで、天皇の身長について「崩御の当日に皇太后の許しを得て測られた結果によると、身長は五尺五寸四分、約一六七センチメートルでした。当時としては大柄です。残念ながら体重は測られませんでした」と述べている。ちなみに、私の身長もちょうど一六七cmである。残念ながら現代の基準では決して「大柄」では無いが。
では、明治天皇の体重はどうだったのか? これについては面白いエピソードがある。ドナルド・キーンによれば、明治天皇は新聞を読むことが好きでは無かったが、そうなった理由はある新聞に「帝の体重は七十五kg」というデタラメを書かれたことだと言うのだ。「朕はそんなに太ってはおらんぞ」ということだったらしい。実際、天皇は若いころは乗馬が好きで、よく体を鍛えていた。子供のころは京都で女官たちに育てられていたのだが、東京へ移ってからは帝として必要な胆力を鍛えていただくという方針で、江戸無血開城のときに活躍した元幕臣山岡高歩(号は鉄舟、通称は鉄太郎)らが侍従を務めた。その影響で、華美を嫌い質素倹約を旨とする性格に育った。前にも述べたが、自分の贅沢のために国防費を削って税金で豪華宮殿を造らせた清の西太后などとはまるで正反対の生活態度であった。あまり指摘されないことだが、当時日本にやってきた清国や朝鮮国の留学生たちも、自分たちの国の「皇室」と日本を比較して、やはり日本を見習うべきだと考えたことは想像に難くない。
体重の話を続けると、天皇は晩年は肥満体だった。甘いものが好きだったからである。またいわゆる大酒飲みで、若いころは日本酒、晩年はワインを好んでいた。皇太后が身長の計測は許しても体重を測らせなかったのは、そのためかもしれない。記録に「重い体重」が残ってしまうからである。崩御は満年齢で六十歳を迎える年の七月三十日(誕生日は11月3日。戦前はこの日は明治節という祝日だった)だが、晩年の数年間は糖尿病と慢性腎臓炎に悩まされていたという。時々昏睡状態に陥ることもあったらしい。糖尿病の影響で歯も相当弱っていたようだが、歯医者に罹ろうとはしなかった。いや、歯医者どころか明治天皇は「自分の健康にまったく無関心でしたし、生涯大の医者嫌いでした」(引用前掲書)だったのである。その理由についてドナルド・キーンは、「自分は大丈夫だろう、自分のような丈夫な人間は医者とは関係ないだろうと思っていました」(引用同)と述べているが、この点について私には異論がある。単なる健康過信で「医者嫌い」になったのでは無く、西洋医学が嫌いだったのではないか。私がそう考える理由は、この連載の愛読者あるいは単行本『逆説の日本史 第二十六巻 日露戦争と日比谷焼打の謎』を読まれた方にはおわかりになるはずである。
(第1335回につづく)
【プロフィール】
井沢元彦(いざわ・もとひこ)/1954年、愛知県生まれ。早稲田大学法学部卒。TBS報道局記者時代に独自の世界を拓く。1980年に『猿丸幻視行』で江戸川乱歩賞を受賞。『逆説の日本史』シリーズのほか、『天皇になろうとした将軍』など著書多数。
※週刊ポスト2022年3月18・25日号