聞くところによれば、御料車(菊の紋章と天皇旗がつけられた自動車)の後部座席に、「剣」と「玉」が安置できるようになっているという話である。この「剣」と「玉」は天皇代替わりのときは儀式をもって次の天皇に譲渡する。この儀式は現上皇が天皇時代に当時の皇太子(今上天皇)に譲位したときも行なわれた。まさに令和元年(2019)五月一日に挙行された「剣璽等承継の儀」である。
錦に包まれた箱に入った「剣」と「玉」が、宮内庁職員によって新天皇のもとへ運ばれるのをテレビの生中継でご覧になった方もいるだろう。ちなみに「等」の中に「鏡」は含まれていない。これは御璽(天皇のハンコ)を意味する。いかに宮中賢所に形代が祀られているとは言え、アマテラスの霊代である「鏡」はやはり別格で、天皇が伊勢に「あいさつ」に行くことに現在はなっている。
現在というのは、明治以前は交通機関も未発達で天皇が京都を離れることはほとんど不可能だったからだが、その時代は天皇の代替わりごとに皇族女性のなかから斎王が選ばれ伊勢神宮内に設けられた斎宮に派遣され、祭祀を行なっていた。やはり「神宮」は特別な存在なのである。
さて、明治末年から大正初年にかけての日本人、それも知識人なら必ず持っていたはずの常識を解説するのにこれだけ紙数を費やすことになったが、そもそも、なぜこのような解説をしなければならなかったか、覚えておられるだろうか(笑)。明治末年に幸徳秋水発言で突如「南北朝正閏論」に火がついたからだ。そして歴史好きの方はもうお気づきかもしれないが、この南北朝正閏問題は普通の歴史書ではあまり詳しく取り上げられていない。その理由もおわかりだろう。
まずは日本歴史学界の三大欠陥の一つである「宗教の無視」という問題があるうえに、歴史学界がまさに「縦割り行政」のように各時代の専門家はいるが通史の専門家はいないし、養成しようともしていないからだ。この問題は後醍醐天皇から楠木正成さらに水戸学といった「題材」を広い視野から見て分析しない限り要点はつかめない。だが、現在の歴史学界にはそういう通史の専門家はいないから、通り一遍の「こんな事件」があった、という記述で終わってしまう。
そういう人々でも、昭和前半期の日本いや大日本帝国が「八紘一宇」とか「神州不滅」とか外から見たら異常に「神がかり」な国家になったことはご存じだろう。なぜそうなったのか? 説明できなくてもそういう体制が一朝一夕にできるものではないということはおわかりだろう。軍部がいかに言論統制をして国民をその方向に向けようとしても、土台が無ければ絶対不可能だ。では、その土台はいつ築かれたかと言うと、まさにこの時代なのだ。だから詳しく分析する必要があるのだ。
(第1354回へ続く)
※週刊ポスト2022年9月16・23日号