つまり、当時の日本は欧米列強とくに英米の眼には「門戸開放の約束を守らず、日本単独で満洲の植民地化をめざしている」と見えた。実際、陸軍参謀本部の児玉源太郎は、それを考えていた。そこで、国際協調を重視する元老伊藤博文は、西園寺首相が帰国した翌月に元老や軍首脳に呼びかけ首相官邸で「満洲問題に関する協議会」を開催したのである。つまり、西園寺の満洲視察も伊藤の指示によるものだったのだろう。
陸軍参謀総長児玉源太郎は、後に陸軍の考える「国策」つまり満洲を植民地化することを視野に入れた積極的経営論を唱えた。児玉が自信満々だったのには理由がある。児玉自身も総督を務めた、日本にとって初めての植民地である台湾の経営が非常にうまくいっていたからだ。児玉には後藤新平という、きわめて有能な部下がいた。
〈後藤新平 ごとう―しんぺい
1857―1929 明治―昭和時代前期の政治家。
安政4年6月4日生まれ。明治31年台湾総督府民政局長となり、39年満鉄初代総裁。41年第2次桂内閣の逓信相兼鉄道院総裁。大正7年寺内内閣の外相となりシベリア出兵を推進。東京市長をへて、12年第2次山本内閣の内相兼帝都復興院総裁となり、関東大震災後の東京の都市計画を指導した。伯爵。昭和4年4月13日死去。73歳。陸奥(むつ)胆沢(いさわ)郡(岩手県)出身。須賀川医学校卒。〉
(『デジタル版 日本人名大辞典+Plus』講談社)
要するに、後藤はきわめて有能な都市設計家であり内政家であった。現在の東京にも後藤の都市設計者としてのセンスが反映されている。また、台湾ではアヘン吸引という悪習を根絶するのにも成功した。さらに、これから日本は韓国を併合しその「経営」に乗り出していくわけだが、ろくな産物も無く清国以上に鉄道やダムや上下水道などのインフラがまったく整備されていなかった韓国(併合以降は朝鮮地区)を近代化するのに、日本は膨大な投資をしなければならなかった(『逆説の日本史 第27巻 明治終焉編』参照)。
つまり、国防上の利点はあったものの朝鮮経営は経済的にはペイしなかった。しかし、台湾経営については後藤の尽力で早い段階から利益を上げるようになった。児玉の人材を見抜く目はさすがである。そこで児玉・後藤コンビは、民間会社でありながらオランダやイギリスの植民地経営の尖兵であった東インド会社のシステムを見習い、南満洲鉄道株式会社(通称は「満鉄」)をそのように「育成」していくべきだと考えたのである。念のためだが、東インド会社とは次のようなものであった。
〈ひがしインド―がいしゃ
一七世紀初頭に、インド、東南アジアとの貿易および植民地経営を行なうためにヨーロッパ各国が設立した独占的特許会社。オランダ(一六〇二~一七九九)はジャワ島中心に活躍。イギリス(一六〇〇~一八五八)はインドを植民地化し、フランス(一六〇四~一七九六)は一時インド支配に積極的だったがイギリスと争って敗れた。〉
(『日本国語大辞典』小学館刊)
つまり、陸軍というか児玉の主張はかなり説得力があったのだ。それに対して元老伊藤の一喝が会議の方向性を決めた。では、伊藤はなんと言ったのか?
〈滿洲は決して我が國の屬地では無い。純然たる清國領土の一部である。屬地でも無い場所に我が主權の行はるゝ道理は無い。〉
(『伊藤博文秘録』春秋社刊)
こうしたとき、「陸軍の法王」である山県有朋(もちろん会議に出席していた)は必ず陸軍側の立場に立って伊藤に反駁するのが常だった。児玉もそれを期待していたに違いない。児玉は山県の反論を待った。
(文中敬称略。第1369回へ続く)
※週刊ポスト2023年2月3日号